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[1]裁判所の果たす役割

安保法制違憲国家賠償請求訴訟を題材に

青井未帆 学習院大学大学院教授(憲法学)

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2017年3月10日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

 

講演する青井未帆教授

青井:学習院大学の青井です。きょうの講演は「裁判所の果たす役割」というタイトルで、サブタイトルとして「安保法制違憲国家賠償請求訴訟を題材に」としています。安保法制違憲訴訟を応援するような形で、お話を申し上げたいと思っています。安保法制違憲訴訟は、違憲国賠訴訟の他、差止め訴訟も起こされているのですが、そちらについては別の考慮も必要なので、いったんおきまして、ここでは違憲国賠訴訟についてのみ考えたいと思います。

 さて、政治的な暴挙が繰り返されていて、しかもそれが既成事実として積み重ねられようとしています。これについて例えば石川健治先生などが「解釈改憲という手法によるクーデターにほかならない」といったご指摘もされており、まことに異常な事態が生じているのは、間違いありません。

 また、新聞報道によりますと、ノーベル平和賞の対象から「9条を保持する日本国民」が対象外となったとのことでした(3月4日東京新聞)。2014年の集団的自衛権に関する閣議決定を経て、2015年の安保法制の制定、そしてそれの施行といったことを踏まえ、それやこれやの事態に直面して、もはやかつての我が国とは違う、変わってしまったと見られているのでしょう。世界から見たときに、日本はもう同じではないということを物語っているのかなと思います。

 なお、きょうのお話の前提と対象ですが、時間の関係で、安保法制は違憲であるということは、前提としたいと思います。立憲デモクラシーの会でも何度も声明という形で出されておりますので、これらの声明のご参照をお願いいたします。

制約されたくない国家

 「制約されることを拒む国家」と言いますか、制約されたくないという国家の出現を、私たちは毎日、ニュース等で見ています。最近にわかに脚光を浴びることになった教育勅語ですが、教育勅語が前提としている国家観———それが実際に明治の最初につくられたときとは、やや別の形で戦争遂行に使われた背景も含めて———、そこで目指されている国家観というものは、やはりいまの変化と密接に関係していると思うんですね。国の形が変わってゆくなかで、あの問題は「特異なもの」として新たに生じたと言うよりか、むしろ、出るべくして出てくる問題だったという側面があるのではないでしょうか。いままで私たちが、「公」の世界では直接には見ることのなかった言葉が、だんだんと普通の言葉の仲間入りをしつつあると、言えるのかもしれません。

 少しこの点を敷衍します。例えば私は1973年生まれで、戦後教育を受けてきましたが、教育勅語の中身は学校では習っていません。その中身とは、個人よりも日本国が大事な価値を持つのだという話だったり、私たちは和をもって国家の繁栄に尽くすのだということだったり、正しい「臣民」の生き方だったりするものです。時代によって、トーンやニュアンスは違いますが、教育勅語的なるもの、あるいは「国体の本義」とか、「臣民の道」とかですね、こういうものに表れている理解が、忌避されるのではなく、だんだんと「公」の世界に普通の言葉の一つとして現れるようになっているように思われます。

 こういう状態の変化を目の前にして、<安保法制は無理が通されたかもしれないけれど、済んでしまったものは仕方がない、つくられちゃったんだから仕方ない。あるいは、北朝鮮がこういう緊迫した事態を引き起こしているんだから仕方がない>と済ますことができるんだろうか。私はできないと思います。

 <何とかなるんじゃないか。少々強引でも、まあ、大丈夫なんじゃないか>。確かに、これまではそう言えたかもしれません。でも、こういった従来の私たちの常識はもう通用しないのではないか。だから私たちは私たちが持っているありとあらゆる方法を使って、これに抵抗し、闘っていかなくてはいけない。

司法の場で憲法を守らせることを提起していく

 憲法12条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とうたわれているように、自由というのは不断の努力でしか守ることができません。自由を保持するには、ありとあらゆる方法が試みられるべきです。その方法のなかでも、安保法制違憲訴訟というのは、重要な闘いの手段となりうると私は理解してります。もちろん政治過程を通じた是正とか、表現の自由の行使を通じた是正もありますけれども、本日、特にお話ししたいのは、司法の場で、憲法の「執行」(エンフォースメント)と言いますか、憲法を守らせることについて、国民が争点を提起していくことを通じた是正というお話です。

 なお、きょうお話しする内容というのは、安保法制違憲訴訟の弁護団の先生方がとっている理論構成というわけでは必ずしもございません。私なりの応援歌というふうに受け止めていただければと思っております。

立憲主義のバージョンアップ

講演する青井未帆教授
 きょうの話を短くつづめると、「立憲主義のバージョンアップ」と言いますか、これまで私たちの社会で通用してきた立憲主義を仮にバージョン1.0だとすると、バージョンアップをして2.0というようにしましょう、といったことを話していくことになります。

 私見によれば、安保法制違憲訴訟はそういった試みの一つに数えられます。司法過程に、私人たる原告が憲法の実現、あるいは執行ということについて提起する。問題を提起して、主体的に関わっていく、憲法を守らせるという立憲主義の闘いにほかならない。憲法のエンフォースメントに関わる主体的な市民、その法の実現に私人が果たす役割について考えたいと思います。

 立憲主義が1.0だったということの念頭に置いているのは、明治以来の歴史です。明治憲法もまた、完全ではなかったとはいえ、立憲主義に基づく憲法でした。しかしながら、長いこと我が国で立憲主義というのは、統治の内部での治者の側の、治める側の技術に止まってきたのではないか。統治される側が憲法秩序を維持するという作用に関わる機会はすごく限られていて、一票を投じるとかですね、そういう瞬間的なものでしかなかった。

 しかし2015年の国会周辺のデモなどに見られますように、「憲法を守れ」ということを掲げる動きが起こりました。立憲主義がここまで人口に膾炙したということは、これまでなかったことでしょう。治者に対して、自らのものとして立憲主義に主体的に関わっていくよう、意味内容を変更させる過程に、いまあるんじゃないか。いま私たちはそういう変化を起こそうとしているんじゃないか。私人の立場で司法過程に立憲主義について問題を提起するということも、そういう変化の一部なのではないかと考えます。

 私たちの間に、もし立憲主義という言葉について、なんとなく外来の、お仕着せのような感じがあったとするとしたら、これを本当に自分達の言葉にする、我がものとする過程なのかもしれない。いや、そう捉えるべきなのではないか。このような変化を、これまでの「統治機構の内部での立憲主義」から「私たちの立憲主義」への変化ととらえるなら、バージョンアップということになるのかなと思っているところです。大上段に振りかぶった、思いつきめいたことを申し上げましたが、このような理解に関わるお話をいたします。

9条は自由や人権の侵害に対する「防火壁」

 さて、そもそも、日本国憲法になぜ9条があるのでしょう。もし戦争になってしまったら、あるいはもしほかの国で戦力の行使、武力の行使に至ってしまったら、だれかの命が失われる。だれかの自由、その人の人生がめちゃくちゃになる。そういう自由とか権利、人権に対する侵害が生じてしまっては遅いから、その前の時点で留める。こういう機能も一つ、9条が存在する理由としてあるはずではないか。9条に違反しないことをもって自由を確保する、こういうためのものでもあったんじゃないかと考えます。あのような悲惨な戦争の惨禍ということがあったからこそ、そういう事態にもう二度とならないように、9条を設けたんじゃないのか。そういう意味で、自由とか人権への侵害の前の段階で止めるというところに、一つ大きな働きがあるはずだ。

 それは、いわば「防火壁」のような作用と言い換えられるでしょう。

 いま何がなされようとしているのか。その自由とか人権の具体的な侵害が発生する前の時点で留めているはずの「防火壁」そのものを、壊そうとされているのではないか。政治部門が、しかも立憲デモクラシーの作法に反するような方法で、この「防火壁」そのものを壊そうとしている。こうしたときに、とりうるすべての方法をもってこの暴挙に対して臨まなくちゃいけない。政治過程を通じた是正とはまた別に、司法過程においてこれを是正するという方法も、試みられなくてはいけないんじゃないかと考える次第です。

政治の暴走に待ったをかけたアメリカの司法

 ここで参考にしたい最近のお話が、トランプ大統領のtravel banをめぐる法廷闘争です。travel ban、入国禁止令ですね。最初に出されたtravel banをめぐって、ワシントン州法務長官などが、宣言判決及びインジャンクション(差止め命令)を求めて訴えを起こしたものに対して、全米規模でのTemporary restraining order(一時的差止め命令)が認められたことが、我が国でも多くの新聞報道等によって、肯定的に伝えられました。「我が国では権力分立がしっかりしてないけれど、彼の地ではちゃんと働いているではないか」、「政治部門が暴走したときに、これに待ったをかける、あの国ではそのようなことが行われたと」、こういう趣旨で伝えていたように思います。

 travel banの中身からすると、本当にあれは違憲なのか、考えれば難しいところもありますが、メッセージを伝えるという点で重要な役目を果たし、待ったをかける効果を持ちました。この点において、対・行政権での抑制均衡の観点から見れば、成功した事例であったと思います。

 レジュメの資料で引用してあるのが、地裁での判断の最後の部分です。「本法廷の任務にとって本質的なことは、司法府が我々の連邦政府の三つの対等な機関のうちの一つであることを注意深く認識することである」。つまりこの事件で問題となっていたのは、まさにその政治部門を止められるか止められないかというメッセージを発することができるか否かだと、裁判所も理解していたと言えるわけです。相当なインパクトが及ぶかもしれないけれども、「本法廷は、本日直面している状況が、三権分立のもとでの司法府に課された憲法的な役割を果たすために介入しなければならないとの結論に達した」。政治部門との関係で司法府が何をできるのかということを考える一つの事例として、私たちも参考にできるものでしょう。

明治憲法下で軍事の統制に失敗したことが出発点

 そしてこれからいたしますお話の前提として改めて確認しておきたいのは、日本国憲法の出発点です。9条との関連で言うならば、これは明治憲法下において、軍事の統制に完全に失敗してしまったということ、そしてまた戦争遂行国家をつくり上げたということとの関係でもありますが、心のなかに国家が入り込む、そういう意味で自由が存在する余地が失われてしまった。この二つを取り上げておきたいと思います。さて、その上で本論に入っていきましょう。まず注目したいのは、安保法制違憲訴訟を起こすというのは、簡単なことではないという点です。簡単ではないにもかかわらず、でもやっぱりやらなくちゃいけないということが話のポイントですので、まず簡単ではないということを、いまの日本の仕組みのなかで見ていきたいと思います。

 まず資料の1の(1)に掲げている日本国憲法の条文をご覧ください。76条1項は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところに設置する下級裁判所に属する」という規定です。明治憲法下では天皇のものであった司法権を、日本国憲法においては裁判所に属するというように掲げている。

 では、司法権というのは一体どういう仕事をするものなのか。憲法学において通説的な位置にある芦部信喜先生のテキストから引用しています。「当事者間に、具体的な事件に関する紛争がある場合において、当事者からの争訟の提起を前提として、独立の裁判所が統治権に基づき、一定の争訟手続きによって、紛争解決の為に、何が法であるかの判断をなし、正しい法の適用を保障する作用」。

 太字部分(「具体的事件に関する紛争がある場合において」)にご注目ください。具体的事件に関する紛争があるときに司法権というのは任務を果たすべく行動ができるといっています。よく考えてみれば当たり前と言えば当たり前ではあるのですが、これは政治部門との一番大きな違いですよね。政治部門というのは、こういう国家にしたいとか、こういう地方にしたいという目的があって、そのためにどういう方法があるかという観点から能動的に動ける機関ですけれども、裁判所は受動的な機関であって、具体的な事件がないと基本的には動かないし、動けない。

 この太字部分が、一般的に「司法権とは何か」をめぐる問題の核心であると説明されています。「事件性の要件」という言い方もします。通説判例によると、それは裁判所法3条に言うところの「法律上の争訟」と同じ意味であるとされていて、具体的に何を意味しているのかというと、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争、つまりだれかの権利、自分の権利、または法律によって保護された利益、これが侵害されたから助けてください、救済してくださいということが必要である。かつ、法律を適用することによって終局的に解決できることが要件として求められています。

具体的な事件がないと、裁判所は動けない

 具体的な事件がないと裁判所というのは動けないということから、具体的な事件がない状態で、抽象的にある法律が違憲であるかとか、ある法律の効力があるかどうかということは争えません、こう言われます。

 例えば、警察予備隊ができたときに、これは違憲なんじゃないかということで最高裁に提起された訴訟に対して、裁判所が答えた部分を資料で引用しました。「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限」であるとされます。「そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。我が裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない」。司法権は、何もないのにこれについてしゃしゃり出ることはできない、ということが言われています。資料の3ページの上にあるように、違憲審査、憲法に違反しているかどうかを裁判所が判断するのは、具体的に司法権が発動される事件において、それに付随して行われるものだ。抽象的に、具体的な事件と関係なく違憲審査を行うものではない。

 裁判所はそもそもそういうことを任務としているわけではないので、例えば、何か違憲な法律がつくられたから、「即座にそれを違憲と言ってください」と言われても、できませんというのが普通の理解です。具体的な事件、権利侵害の要件が満たされることなく、司法権は動けない、違憲審査ができないと、これまで理解されてきたということを、まず確認していただきたいと思います。

 ただ、その例外として、これは学問上の概念で「客観訴訟」というくくりがあるのですが、法律で特別に、自分の利益、自分の権利に関係なく訴訟が提起できる場合も例外的に認められるとされていまして、よく憲法訴訟で使われるのが、地方自治法の定める「住民訴訟」です。これは、住民という地位に基づいて訴訟を起こすのですが、個人の権利や利益に関わらないことも、特別に法律がある場合はできると考えられています。このため、地方公共団体の政教分離原則違反は、この訴訟形式で問うことができます。そのほか、一人一票の原則を争う定数不均衡訴訟も、選挙人という地位に基づく特別の訴訟形式をとっています。

 これらはおなじみの憲法訴訟の形式といえるでしょう。ですから、違憲訴訟を提起するのが簡単なことではないというのは、なんだか合点がいかないという方も多いのではないかなと思いますが、特別に法律で訴訟形式が定められていない場合、裁判所に国家行為の違憲性の判断をダイレクトに求めようとするのには、大きな困難が伴います。

(写真撮影:吉永考宏)