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都議選の批判票もいいが、ナショナリズム批判は?

安倍政権の「パフォーマンスの矛盾」はもう明らか。問題はその先だ

三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

小池百合子・東京都知事(左)と安倍晋三首相安倍晋三首相と小池百合子・東京都知事、この二人に共通する「志向」は……
 続々と出てくる状況証拠にもかかわらず、「特定の大学の開設承認など働きかけたことはいっさいない」と言い張る一方で、その問題が扱われそうな機会をできるだけ忌避する。「なんの問題もない」と言いながら、理由にならない理由をつけて証人喚問を拒む。なんの問題もないなら、正々堂々とやったらどうだろう、と普通の人なら思う。

 こういうのを哲学では「パフォーマンスの矛盾」と言う。決して難しい話ではないので1分間だけ我慢して以下の文章を読んでいただきたい。

 もしも、目の前の人が「私は今ここにいません」と言ったらどうだろう。悪ふざけでなく、公的な場で公的なまじめさで言ったらどうだろう。「変なこと言うんじゃないよ。あなたは今ここにいるではないか」と答えるより仕方ない。あるいは、「お医者さんに行ったほうがいいかもしれませんね」という返事もありうる。

 つまり、彼は、この発言をすることによって、発言内容の信憑性を壊しているわけだ。ここにいて、なにかをしゃべるというパフォーマンスによって、「ここにいません」という発言の中味が現実に相応していないことを露呈している。

 こういうのを言語のつながりや発言の仕方を問題にする分析哲学という分野では、今触れたように「パフォーマンスの矛盾」という。フィンランドの哲学者ヤーッコ・ヒンティッカ(1929~2015)などが唱えた。一見難しそうな専門用語だが、内容は今の例にあるように、さして難しいことではない。

 もちろん、「私は英語を話せません」と伝えたいために、I cannot speak Englishと話すのもうるさく言えば「パフォーマンスの矛盾」だ。「だって、実際にこの正しい英語の文を喋っているではないか」とすぐ突っ込みたくなる。

 とはいえ、この場合には、この1行の文とGood morning!ぐらいしか言えないという意味合いだろうから、コンテクスト的には、発言によって発言内容の虚偽性を露呈しているというわけではない。それゆえ、「おお、今、英語をしゃべったじゃないか」は、矛盾の指摘ではなく、下手くそなまぜっかえしにしかならない。

 「暗黙」どころか「明白」

 さて、ここで哲学のレクチャーは終えよう。言いたいのは、安倍首相は、「働きかけたことはいっさいない」という発言の内容を、それについての国会での質疑の機会を拒むことによって否定している。これこそまさに「パフォーマンスの矛盾」ということだ。

 つまり、「裏でいろいろとやってきました」と認めているのと同じだ。国会で論じられるのをいやがって、徹夜で「共謀罪」を通して閉会にしてしまったこと自体が、「暗黙の自白」だ。書類がすぐなくなったり、早々と処分されるのも(行政機関にあるまじきことは別にして)「暗黙」どころか、もう「明白な自白」だ。素朴に言えば、「仕草でわかる」ということだろう。

 本当は、堂々といくらでも審査に応じることで、「パフォーマンスの矛盾」を解消する方が得策なはずだ。しかし、そうすると証拠がどんどん出てきて、「やばいことになる」のは火を見るよりあきらかだろう。前にも後にも進めず、「パフォーマンスの矛盾」、つまりこの場合には「暗黙の自白」、いやほとんど「明白な自白」に甘んじているわけだ。都議選の結果を受けて野党はさらに追求する姿勢だが、理屈の上ではもう十分だ。あまりにも明白に「暗黙の自白」をしている。

 もちろん、現在の証拠では司直が動くのは、「忖度病」に検察も深くかかっているらしいことを抜きにしても、難しいかもしれない。しかし、法的には無理でも、政治的にはこの「パフォーマンスの矛盾」で十分だ。仲間内で利益誘導を「やっている」ことをはっきり認めているわけだから。そこらじゅうに獣医学部を作ろうなどと言うにいたっては、語るに落ちる。哲学の表現も事態を明確にするのに、少しは役に立てているのではなかろうか。

「自分とお友達と自分たちの国さえよければいい」

 問題はしかし、その先だ。裏での忖度利用のお友達主義と同時に、表では信念の愛国主義者の、

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