メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

[2]市民が憲法の実現を求めることは当然できる

違憲の事態に「待った」をかけるのは司法権の役割の一つ

青井未帆 学習院大学大学院教授(憲法学)

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2017年3月10日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

 

拡大講演する青井未帆教授

安保法制違憲訴訟は無理なのか?

 こうお話ししてくると、では安保法制違憲訴訟って無理なんじゃないの? とお感じになられるかもしれませんね。確かに特に玄人筋からは無理なんじゃないかという意見も強いところでもあります。ここはまず厳しいということを前提に、でもやっぱりできなくちゃいけないんじゃないかということを主張したいと思います。

 資料の(4)が国家賠償請求訴訟法の1条でして、これは「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは」賠償責任が生ずるということを定めています。立法行為・立法不作為も対象となるということは判例の立場でもあります。国会議員が立法するという公権力の行使が、国家賠償請求の対象となるとされています。

 立法することそのものが個人に損害を与えるなんて、そんなこと、普通はないんじゃないかと思われるでしょう。「○○法を制定したことが違憲違法なので、私に5000円支払ってください」なんて、あまり想像できないことだと思います。

 実際のところ、そういう訴訟の提起は、伝統的な理解によれば難しいことになるのですが、最近、最高裁の判断のなかでも、憲法訴訟の受け皿の一つとして、活性化しつつあるようにも見えます。例えば、賠償請求自体は認められませんでしたが、女子のみに再婚を禁止する規定について100日を超える部分が違憲と最高裁に判断されるなど、違憲判断をだす形式として、どうも定着していきつつあるのかなとも思えます。ただ、基本的には、国賠法上の違法となるのは非常に限定的な例外的な場合であるとして、間口を狭めているのが最高裁の立場です。

 違憲国賠訴訟は、違憲であるということを国家賠償請求訴訟の違法性の前提として主張するタイプの訴訟です。これは裁判所にとっては、「損害賠償請求権という権利がありますか? ないですか?」ということが問われているので、先に見た「法律上の争訟性」は満たすんですね。

 だからといって、すぐに違憲という判断が得られるかどうかというと、まだハードルがあります。例えば首相の靖国参拝が違憲であるとして、国家賠償請求訴訟を求めるということについて ---いまも安倍靖国参拝訴訟が提起されていますが---、平成18年6月23日の最高裁判決は、首相が参拝することによって、「上告人らに損害賠償の対象となりうるような法的利益の侵害があったとはいえない」としています。法律上の争訟なんだけれども、法的な保護に値するような利益はありませんねと、結局認められなかったわけです。

違憲の判断を求めるには高いハードル

拡大講演する青井未帆教授
 本日の話の中では、法律上の争訟性を形式的に満たすかどうかということではなくて、本当にこれを事件として、裁判所が判断するような事件かどうかということを捉えて、ちょっと広い意味で「事件」という言葉を使っておきたいと思います。例えば、先ほど見たように国に損害賠償を請求する国家賠償請求訴訟としてなら、訴え自体は起こしやすいのだけれども、だからといってかならず司法が実質的な判断をするというわけじゃない。そこで、司法権が実質的な判断をする対象として、「事件」という言葉をカッコでくくって使います。

 安保法制違憲訴訟についていえば、こういう意味での「事件」があるかどうかが問題になります。一見すると、ないように見える。でもそれは当たり前と言えば当たり前なんですね。先に「防火壁」という言葉を使いましたが、9条は具体的な侵害が発生する前の段階で、自由が守られるための仕組みでもあります。そういうことですから、伝統的な意味での、権利侵害を伴う具体的な「事件」が考えにくいのは当たり前なのでしょう。むしろ、9条があるのに、そんな事態が生じるとなっては、9条の規範としての意味が問われることにもなります。

 そこで、伝統的な意味での「事件」があるとは言いづらいということを前提にしましょう。この場合、「じゃあ、仕方ありません。司法権は何もできません。」と簡単に言ってしまっていいんだろうか。「明々白々の権利侵害が起きるまでは、司法はどうしようもありません。」というに等しいわけですが、それは妥当なことなのか。

 いま起こっているのは、政治部門の暴走と、政治部門内での抑制・均衡の機能不全です。そうした事態で、政治部門の違憲的な行為の統制という意味での司法権の役割が問われているわけです。ハードルは、確かに高いでしょう。ハードルが高いけれども、さっきのトランプ大統領の入国禁止令についての裁判所の判断に見られるような、三権の一つとして、憲法を一番大もととする憲法秩序の維持という任務を果たすためには、できることがあるはずだ、と私は思っています。

 そもそも、「防火壁」たる9条そのものへの攻撃といった事態において、私人たる原告が司法過程に是非を問うことが許される場合があると考えるのでなければ、事前に止めるという「防火壁」としての意味がなくなってしまうとも考えられるのではないでしょうか。9条は、そういう場合について訴訟提起を<許容>しているはずだ、といえるのでなければ、9条という他国と比べても極めて意欲的な権力抑制と自由確保の試みの意味が薄まってしまうのではないか。こう考えます。

安保法制違憲訴訟について「争訟の状況」はある

 安保法制違憲訴訟について、具体的な伝統的な意味での「事件」はないと言いましたけれども、私が理解するところ、長谷部恭男先生のおっしゃるところの「争訟の状況」はある。政治的に解決されるべき「政治の状況」ではなくて、司法において統一的に確定しているべき状況、争訟の対象とするべき「争訟の状況」であると、私は考えています。

 これは「政治の状況」だと言う人もいることでしょうが、 ・・・続きを読む
(残り:約4148文字/本文:約6686文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
デモクラシーやJournalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

青井未帆

青井未帆(あおい・みほ) 学習院大学大学院教授(憲法学)

東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得満期退学。 信州大学経済学部准教授、成城大学法学部准教授などを経て2011年より現職。 著書として『憲法を守るのは誰か』、『憲法と政治』など。

青井未帆の新着記事

もっと見る