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[3]裁判所の裁量を使って市民が訴えかける

憲法秩序の維持は動態的力学の中で考えるべきだ

青井未帆 学習院大学大学院教授(憲法学)

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2017年3月10日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

 

講演する青井未帆教授

 レジュメに、田中英夫先生と竹内昭夫先生の「法の実現における私人の役割」という論文から少し引用してあります。英米法の大家でいらっしゃった田中先生と、商法の大家であった竹内先生がお書きになっている論文です。なお、同じタイトルの書物も、1987年に東京大学出版会から出されています。

 引用した箇所で先生がたは、日本法と英米法系の考え方を比較したときに、「行政機関が法のエンフォースメントを独占しようという日本法の傾向」があると指摘しています。想定されているのは、「法律の執行」です。法の実現をするのは行政機関の役割であると。法の実現をするためにどうやって私人がこれに関わるのか。どうやったら法の実現が最もよく効率的にできるのか。日本では、こういう観点からは見られていない。このようなご指摘です。

私人が司法過程に争点を提起することの意味

 例えば、日本では取られることがないが、反トラスト法の3倍賠償という、生じた損害の3倍の賠償責任を負わせる制度は、すごく強い武器となり、生じた損害の3倍もの賠償額を認めるということを通じて、効率的に法が実現しようとしている価値が守られやすくなる。こういう、効率的な法の実現という観点が日本法に欠けている、とされます。「法の実現のための私人の活動をエンカレッジし」、つまり勇気づけて、法が効果的に実現するために私人もその役割を、司法過程に争点を提起することによって果たし、「それによって行政機関の能力を補って行こうという発想法の欠如という日本法の特質」がある、と。

日本の法は国民を治めるためのものだった

講演する青井未帆教授
 これはどうしてそうなのか。そのあたりについては、先生がたのこの論文のなかでも、それほど多くのページ数が割かれているわけではありませんし、それ自体、深い研究を必要とすることでしょうが、非常に印象的なことを述べておられます。明治維新前後から、中央集権国家として法をつくっていくにあたって、短期間に日本は西欧諸国から法文化、法律制度を学んで、それを実行したわけですが、田中先生と竹内先生のご指摘いわく、その過程で、「法は、まさに、国民を治めるために治者が動かすものと考えられることになった」。

 法のエンフォースメントが治者によって独占されて、「被治者のなし得ることは、治者に対し、法の下での救済・庇護を求めることでしかない」。

 大衆をいわば「客分」として理解することについて、明治が一つのポイントだったことは間違いないかと思うのですが、さらに江戸時代やその前にもさかのぼれるのかもしれません。この点は措きます。少なくとも明治において、法を輸入して、それを実現することは、田中先生や竹内先生がお示しになったような理解がとられることなしには果たしえなかった部分がきっとあるのでしょう。

 「国民は、治者による統治の客体であって、国民相互の間で正義を追求し秩序を維持するための積極的努力をなすべき主体ではない」。つまり司法過程に問題を提起するということは、裁判所も含めて、私たちで私たちの法秩序を守っていこうという営みに他ならないところ、そういうようなルートは考えられない。国民相互の間で、秩序を維持するということではなく、一方通行である、とこうおっしゃいました。

発想として出てこなかった、私人による争点提起

 つまり、国家が国民を統治し、国民が統治や法秩序の維持に関わらないという一方通行であるがゆえに、司法過程に法秩序の維持というような争点提起をすることが、発想としては出てこないのだという指摘なんですね。それは的を射たご指摘なのではないかと思います。そして、今日でも、そのような状況が続いているのではないでしょうか。

 先生がたが念頭において議論されていることは、「法律の執行」の段階ですが、同様に政治(政策決定)を「憲法の執行」として、そのことに関わる争点を司法過程に私人が提起するという視点で捉えることもできるのではないか。少なくとも、応用は可能だろうと思います。

 憲法を執行するものとして法律が捉えられます。法律は何かというと、憲法の定める手続きに従って国会が作る法規範であり、憲法適合性をはじめ、様々の利益を調整した「結果」です。この過程での主たるアクターは、私たちの代表機関としての国会ということになりますが、効果的に憲法がエンフォースされ、憲法秩序が維持されるため、政治を憲法に従わせるためには、国会以外のルートも選択肢に入れて検討されるべきです。そのような方法として、私人たる原告が裁判所に憲法上の争点を提起するということが理解できるのではないかと思っています。

 私人の側から司法府に問題を提起して、法秩序の維持が効果的に図られることという営みは、「私」の利益より、必然的にもっと大きな利益を含んだ主張を、私人が提起することを意味します。私たちが、国民相互のあいだで、憲法を頂点とする法秩序の維持を追求する手法として司法過程を使うという理解です。これはまだまだ日本では十分な展開を見ていない領域と言えます。

 でも先ほど見ていただいたParens Patriae訴訟もそうですけれども、司法過程を通じての法秩序の維持が、三権分立における司法の役割の一つとして数えられるものでしょう。司法権がなしうることの一部であるし、むしろそうであると敢えて立論しなくてはいけない場面もあるのではないか。そして、憲法の実現に私人が関わることは、もともと「司法権の本質論からして無理なこと」ではないのではないか。日本国憲法によってアメリカ流の司法観がとられるようになったと説明されてきましたが、真似をしたとはいっても、この部分はまだ検討の余地があるという気がいたします。

三権の関係は動態的な形で理解すべきだ

 そこで、レジュメの「裁判所の役割」というところに入りたいと思います。憲法秩序を維持していくというのは、何か作用があれば、反作用が起こり、といった動態的な力学の中で、時間的なスパンも含めて考えるべき関係です。

 どこかが行き過ぎてしまったら、どこかがこれを抑制しなくてはいけない。私たちは学校教育の過程で、立法権、行政権、司法権の三つの権力について、国会、内閣、裁判所をそれぞれの頂点とする三角形を描いて、矢印で頂点を結んで、抑制均衡の関係があるといった説明を受けてきていると思います。この図でいえば、矢印についてのみ注目すれば良いというものではありません。「動く三角形」とでも言いましょうか、頂点の大きさも、与えられる権限の大きさによって変わりうるものですので、どこかが新たな権限を付与されて大きくなるのだったら、同時に別のどこかがそれを制約しうる権限を持つべし、という形で動態的に理解すべき事柄ではないかと思います。

 憲法を法律という形で執行し、

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