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[4]重要なのは司法の役割の明確化

違憲訴訟により市民が外から立憲主義を統治の内部に注入する

青井未帆 学習院大学大学院教授(憲法学)

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2017年3月10日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

 

拡大質問に答える青井未帆教授

司法はいま何ができるのかを明確にすること

 安保法制違憲訴訟をきょうの話の素材に選んでいますが、一番重要と私が考えますのは、「いまこの日本で」司法の役割として何が求められているのか、これを明確にすることです。<安保関連法制定は憲法9条の下でできることだったのか>、<議会制民主主義が正常に機能しているのか>、<三権のバランスは取れているのか>、<米軍の活動の変化との関係で見た時に自衛隊を十分統制できる制度なのか>、等。これらの問題は、安保関連法制定だけではなく、関係する様々な法制度や現実、そして社会の状況などの検討を必要とします。

 先に、動態的に三権について考えなくてはいけないと申し上げましたが、近年特に行政権が巨大になっています。特定秘密保護法、日本版NSC法が2013年に制定されました。集団的自衛権の行使だって、内閣が決定します。行政権一つが、突出して大きくなっていて、国会、なかでも野党は期待されるブレーキ役を果たせない。国会でまともに答弁されない。強行採決が繰り返される。抽象的な問題としてではなく、こういう具体的な状況のなかで、司法権はいま何ができるのか、何を責務としているのかを考えることが不可欠であって、決定的に重要なんだろうと思います。

違憲審査権の意義を改めて考える

 先ほど口頭でも読み上げた81条ですが、憲法の危機を迎えてしまったいまの状況のなかで、日本国憲法が81条で違憲審査権を裁判所に認めていることの意義を改めて考えるべきでしょう。もし憲法判断が政治的な判断、高度な政治的な判断を必要とするからといって差し控えられるとするならば、81条を認めた意味というのがなくなってしまう。政治的であればあるほど、81条を行使できないということになってしまう。でもそうではなく、81条が最高裁判所をはじめとする裁判所にブレーキ役となれと命じているのではないか。政治的な問題だから控えるべきということにはならないのではないか。

 そして79条2項では、「最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする」という最高裁判所の裁判官についての国民審査権が認められている。国民審査は何を指標としてするのかは最高裁がどれだけ自らの使命を果たしているのか、ということなしには、本来、国民審査というのはできないはずです。三権のなかで抑制・均衡を効果的に図っていく。「小さな司法」という言い方もされますけれども、民事、刑事といった昔から認められてきた裁判作用を超えて、どのようにほかの権力を統制するのか。違憲審査は、81条によって裁判所が適切に行使しなくてはいけない責務とされている。きちんと責務を果たしているかどうかは、国民審査の際に、重要な判断指標になるのであり、また最高裁が正しい判断を下すため、下級審裁判所での事実認定が重要であることも確認したいと思います。

「口を出したがる司法の危険」も

拡大講演する青井未帆教授
 さて、裁判所が果たす役割や大きな裁量を肯定するようなお話をしてきましたけれども、これはもちろん危険な話でもあるわけですよね。資料の6ページに「むやみに口を出したがる司法の危険」と書きましたが、これはだんだん現実のものとなってきているようにも思います。

 辺野古訴訟で、福岡高裁は、国防という利益と基地周辺の利益といった、大きさが最初から違う利益を赤裸々に比べるようなことをしています。となると、国の政策を単に承認するだけだったり、もっと悪くて、国の政策を積極的に正当化する機関として働いてしまう。もともとそういう形の利益衡量をすることを排除しているのが、9条の意味だったと私は解しますけれども、安全保障に関する利益を打ち出すようになってきているなかで、無邪気に裁判所の裁量の余地を広く認めるのは、いかがなものか。このような疑問は当然です。

 さらにレジュメに「呼び水論」とも書きましたけれども、次のような懸念も示されています。これまで自衛隊が合憲か違憲かということはグレーにされてきて、最高裁は判断をしていないということが、合憲論が正当なものとして通用することへの歯止めになってきたところ、安保法制違憲訴訟という形で提起することで、これが裁判所によって合憲とされてしまっては元も子もないのではないか、という問題です。

 それに、仮に安保関連法が「違憲」と判断されるなら、いまでも政治部門から司法部門へ介入が行われているところ、もっと露骨な介入がなされて、司法権の独立がさらに失われ、通常の民事、刑事の裁判もできなくなってしまうかもしれない。

 確かに、簡単なお話ではありません。でも、そういうことも含めて、私はこの安保法制違憲訴訟によって、司法の場に立憲主義、政治が憲法を守るということについての争点が提起されて、国に説明や理由づけが求められ、司法の手続きに従って事実関係が明らかにされ、文書として残されることは重要だと考えます。

 「9条を保持する日本国民」がノーベル平和賞の対象外となったということを最初にご紹介しましたけれども、「もういままで通りじゃない」と世界からも認識されている。変わってしまっているわけです。私たちが長年前提にしてきた「常識」をめぐる状況が変わって、実は今日では常識として通じなくなっているのかもしれない。

 もしかすると裁判所に問題を提起した結果が大きな反作用をもたらすかもしれないし、大きな問題を起こすかもしれないけれど、そのときはそのときでしょう。そういう危険や司法の状況も含めて、どの機関も単純に信じることはできないということを、すべて白日の下にさらさなくちゃいけないんじゃないか。

 いま、ブレーキ役になるものがない状態で暴走が進んでいる。これはもしかすると ・・・続きを読む
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筆者

青井未帆

青井未帆(あおい・みほ) 学習院大学大学院教授(憲法学)

東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得満期退学。 信州大学経済学部准教授、成城大学法学部准教授などを経て2011年より現職。 著書として『憲法を守るのは誰か』、『憲法と政治』など。

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