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[2]植民地期における朴正煕と金大中の選択

植民地支配の受容と反発

金恵京 日本大学危機管理学部准教授(国際法)

尚北道亀尾市にある故朴正熙元大統領の生家=東亜日報提供拡大慶尚北道亀尾市にある朴正熙元大統領の生家=東亜日報提供

朴正煕の誕生と三・一独立運動

 韓国が大きな転機を迎えた2017年から、ちょうど100年前の1917年11月14日、朴正煕は慶尚北道南西部の亀尾(クミ)市に7人きょうだいの末っ子として生まれた。出産当時、母親が45歳と高齢だったこともあって、彼は一層大事に育てられたという。また、実家はいわゆる貧農に位置づけられており、父親は両班(リャンバン、旧貴族)の出であったものの、収入は母親の農業に大きく頼っていた。

 当時、韓国は日本の植民地下にあり、旧来の農村社会は土地調査事業によって大きく再編されていた。公有地と見なされていた場所の所有権をめぐってしばしば対立が起き、慣習的にその土地の耕作者とされていた農民の一部は仕事を失った。

 そうした者の多くが日本を含めた大都市に仕事を求めるようになり、同時に朝鮮半島内における日本人の居住も一層進んだ。つまり、韓国の地域社会が従来有していた秩序が崩れる中で、それに反比例するように日本の影響は大きなものになっていったのである。

 そして、日本が支配を強めていくにつれ、韓国人の不満は当然のように高まっていった。ヨーロッパ諸国がアジアの国々を植民地にするのとは異なり、江戸時代には使節団を差し向け、国内に居留地を設けるなど、対等な関係にあった日本の植民地になることは韓国にとって受け入れ難いものであった。

 一方で、日本も現地での反発を認識していたため、韓国に渡った日本人官僚は警官や兵士ばかりでなく、教員ですらサーベルを身に付けることに代表される強圧的な支配、いわゆる「武断統治」を行なった。

 そうした強硬な手法は、中世であれば渋々ながら受け入れられたかもしれない。しかし、時代は20世紀に入っていた。第一次世界大戦が1918年に終わり、その後のベルサイユ講和会議において、それぞれの民族が自らの政治方針や帰属を決定していくという「民族自決」の方針がアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンによって主張されたのである。

 その情報は虐げられていた各国の民族運動に火を点けることとなったが、その一つが1919年3月1日にソウルのパコダ公園(現在のタプコル公園)での独立宣言に端を発した三・一独立運動である。それは当時の韓国人の「圧政への抵抗」や「自治への願い」といった思いの発露であった。

ソウルのタプコル(旧パゴダ)公園で独立宣言拡大ソウルのタプコル(旧パゴダ)公園にある独立宣言書を刻んだ碑
 そして、三・一独立運動については現行の「大韓民国憲法」前文冒頭にも記載され、3月1日は韓国で国民の祝日となっていることからも、その位置づけの重要性は理解できよう。

 その運動の発火点が日本であったことも、当時の韓国におけるエリート層の状況を表している。

 著名な民族運動家が宗主国あるいは支配国に留学し、その思想的基盤を確立することは珍しくない。例えば、イギリスに留学し弁護士となったマハトマ・ガンジー、日本に留学した周恩来、フランスで暮らしイギリスに学んだホー・チ・ミン等々の名前が浮かぶ。

 そして、1910年代の東京には数百人単位で韓国人留学生が学んでいた。その有志が母国独立の願いを込め、1919年2月8日に「二・八独立宣言」を採択したのである。その会場となった在日本韓国YMCAには、現在も同宣言のレリーフが飾られている。宣言の後半部分を見ると「今日より正義と自由とにもとづく民主主義的先進国の範に従い、新国家を建設するならば、わが建国以来の文化と正義と平和を愛好するわが民族は必ずや世界の平和と人類の文化に対し貢献するであろう」との文面がある。

 換言すれば、その独立宣言には国際的な動向、あるいは民主主義を背景とした韓国人の強い意志が込められていた。韓国人留学生によって起草された文面は日本政府による弾圧を受けつつも海を渡り、日本での独立宣言から約3週間後、三・一独立運動の発端となる「独立宣言書」に連なっていく。その一言一言は朝鮮半島の人々の胸を打ち、彼らの思いは燎原の火のごとく半島中に広がった。

 朝鮮半島を覆った市民の思いも虚しく、2カ月ほどにわたった独立運動は数千人の犠牲者を出して失敗に終わる。しかし、韓国人の強い反発を改めて知った日本政府は、朝鮮半島の支配形態を「武断統治」から徐々に「文化統治」へと切り替えていった。また、皇室への忠誠に基盤を置いた教育や、日本語の公用化といった皇民化政策も同時に行われ、思想や制度の面で植民地化は一層進むこととなった。そうした時代の中で、朴正煕少年は成長していったのである。

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筆者

金恵京

金恵京(きむ・へぎょん) 日本大学危機管理学部准教授(国際法)

国際法学者。日本大学危機管理学部准教授、早稲田大学博士(国際関係学専攻)。1975年ソウル生まれ。幼い頃より日本への関心が強く、1996年に明治大学法学部入学。2000年に卒業後、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科修士課程に入学、博士後期課程で国際法によるテロリズム規制を研究。2005年、アメリカに渡り、ローファームMorrison & Foester勤務を経て、ジョージ・ワシントン大学総合科学部専任講師、ハワイ大学東アジア学部客員教授を歴任。2012年より日本に戻り、明治大学法学部助教、日本大学総合科学研究所准教授を経て現在に至る。著書に、『テロ防止策の研究――国際法の現状及び将来への提言』(早稲田大学出版部、2011)、『涙と花札――韓流と日流のあいだで』(新潮社、2012)、『風に舞う一葉――身近な日韓友好のすすめ』(第三文明社、2015)、『柔らかな海峡――日本・韓国 和解への道』(集英社インターナショナル、2015)、最新刊に『無差別テロ――国際社会はどう対処すればよいか』(岩波書店、2016)。

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