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細川元首相が語る日本の政治、そして小池都知事

二大政党制より穏健な多党制。選挙制度は再改革を。小池さんは国のかたちを語れ

細川護熙 元首相

 今から25年前、ひとつの新党が誕生した。熊本県知事もつとめた細川護熙さんが旗揚げした日本新党である。自民党一党優位の「55年体制」による政治が行き詰まり、相次ぐスキャンダルで金権腐敗政治に対する世論の批判が高まるなか、無謀とも見える新党結成で政治を変えようとした細川さんは、それからわずか1年で非自民連立政権の首相に。「55年体制」に幕を下ろすとともに、政治改革の実現に邁進し、衆議院への比例代表並立制の導入を柱とする政治改革を実現した。政党交付金制度と合わせて、政党の力が強まり、政権交代のある新しい政治が実現するはずだったのだが……。

 79歳になった細川さんは、今の政治について、政治改革を実現したときに考えていた姿とは随分違ってしまったと嘆く。なぜ、そうなってしまったのか。政治改革にどこか間違いがあったのか。そうだとすれば、これからどうすればいいのか。日本新党から四半世紀を振り返りつつ、日本政治の問題、課題、これからの展望などを聞いた。(聞き手・WEBRONZA編集部・吉田貴文)

細川護熙さん拡大細川護熙さん
 

与野党で活躍する日本新党出身者

――現在おこなわれている民進党の代表選に立候補している前原誠司さん、枝野幸男さんは、細川さんが立ち上げた日本新党から政界に入りました。また、その言動がなにかと話題を呼ぶ小池百合子都知事も、日本新党の創設メンバーとして政治家のスタートを切りました。さらに先日の安倍晋三改造内閣で経済再生相に就任した茂木敏充さんも日本新党の出身です。かつての同志たちが、与野党の枠を超え政界の最前線で活躍しているのをご覧になり、どうお感じになられますか。

細川 愛媛県知事の中村時広さんや名古屋市長の河村たかしさんなどもそうですね。日本新党がなぜこれだけの人材を輩出できたのか。いわゆる「二世」や労働組合出身ではないために政界に参入できなかった才能豊かな人材に、政界に参入する機会を与えたからでしょう。

 そういう立場にあるだけに、チャレンジングなマインドをもった人材が多かった。日本新党の解党で彼らを解き放ったことにより、政治家としての自分の居場所とスタイルをめいめいの努力によって開拓していったということです。

――今も日本新党の出身の政治家とは会っておられるとか。

細川 ええ。政党にかかわらず、ときどき会っていますよ。

――細川さんから何を聞きたいのでしょうか。

細川 何でしょうねえ。私は田舎に引っ込んで絵を描いたりしているだけで、政治の話ができるわけないんですけどね。

小池都知事ともときどき会って

――小池都知事とも……。

細川 ときどき。彼女は日本新党を旗揚げしたときから一緒にやってきたメンバーですからね。頑張ってもらいたいと思っていますよ。チャレンジ精神もあるし、政治的な勘もいいし、コミュニケーション能力も抜群ですしね。

 ただ、よく分からないところもあるんです。たとえば国是である非核三原則について、また平和憲法や脱原発はどう考えているのか。環境重視の立場ならパリ協定とどう向き合うのか。小池さんは私の考えはご承知だと思いますが、彼女の考えはまだ、よく聞いたことがありません。自民党との距離感はどうなのかということも含め、そのあたりは注目ですね。

細川護熙さん拡大細川護熙さん

――小池さんは「都民ファースト」を立ち上げましたが、自らの「原点」である日本新党とオーバーラップさせているところもあるのではないでしょうか。

細川 それは多分にあると思いますよ。

――日本新党の経験を話されることも。

細川 各種選挙での経験とか。細かいところでは、日本新党のシンボルカラーのグリーンを都民ファーストのシンボルカラーにも使うなど、いろんなところで日本新党の経験をいかして、やっていると思いますね。

政権交代可能な政治を求めた90年代はじめ

――その日本新党ですが、1992年5月に「責任ある変革」をスローガンに旗揚げしたときは鮮烈でした。私は環境庁担当の政治記者でしたが、細川さんが「文藝春秋」6月号(5月発売)で「『自由社会連合』結党宣言」を発表されたときは、どんな新党ができるのか、思いをめぐらせたのを覚えています。

◇細川護熙さんのプロフィール
1938年 東京都生まれ
    63年 朝日新聞社入社
    71年 参議院議員に当選(2期)
    83年 熊本県知事に当選(2期)
    92年 日本新党結成
              参議院議員に当選
    93年 衆議院議員に当選
              第79代内閣総理大臣任命
    94年 内閣総理大臣辞任
              日本新党解党
    98年  衆議院議員を辞任。60歳で政界を引退。
             作陶や書画など創作活動に
2014年  東京都知事選に立候補、落選 

細川 当時は、国際的には東西冷戦が終結し、国内的には高度経済成長が終焉するという、まさに時代の変わり目でした。一方、政治の世界では、金権腐敗に対する国民の怒りが吹き上がり、政治改革の機運がかつてなく高まっていました。自民党の一党支配体制こそがその元凶だということで、政権交代可能な政治を目指せという声が、非常に強かったですね。

 政権交代のためには小選挙区制が必要だ。金権政治をなくすには、政党助成金を導入し個人や派閥よりも政党に政治資金が集まるようにしないとダメだ。そういった議論がさかんにおこなわれていました。

――自民党では80年代末から、リクルート事件などのスキャンダルへの反省を踏まえ、政治改革の動きが活発化していましたが、これを抑える党内の動きも強かった。そのとき、自民党の外に日本新党という「旗」を立て、新しい政治の実現を訴えたのは歴史的な挑戦だったと思いますが、リスクもありましたよね。

細川 もちろんリスクだらけですよ。なにを一人でドンキホーテみたいなことをやるの、頭がおかしいんじゃないの、などとさんざん言われました。しかし、現実には自民党が割れて、ヤマが動いたわけです。 

日本新党の旗揚げから1年で首相に

――発足から2カ月後の参院選では細川さん、小池さんら4人が当選。1年後の東京都議選(93年6月)では公認・推薦で27人を当選させて勢いにのり、7月の衆院選で35議席を獲得。8月には細川さんを首班とする非自民連立政権が発足しました。

細川護熙さん拡大細川護熙さん

細川 雲の一瞬の切れ間に切り込んでつかみ取ったような勝利でしたね。旗揚げのタイミングがあれより早くても遅くても、おそらくあんな劇的なことにはならなかったでしょう。自分でもちょっとびっくりしました。

――当時、私は細川政権誕生を現場で取材していましたが、8つの政党・会派が連立する前代未聞の政権を目の当たりにしたときは、ほんとうに驚きました。

細川 ポイントは自民党から出た人がいたということです。あのときは、小沢一郎さんたちのグループが新生党、武村正義さんらのグループが新党さきがけを、それぞれ自民党を割って立ち上げ、連立政権に加わった。あれがなければ、あの連立政権はなかったと思います。

 今、小池さんも自分たちのところだけで何かできるかというと、それはなかなか難しいと思いますね。民進党が仮にくっついたとしても大きな展開にはならない。自民党が割れないと。それが一番のポイントですね。

自民党案丸のみし、選挙制度改革を実現

――細川政権は政治改革の実現を最大の課題に掲げましたが、関連法案が成立するまでの道のり(注)には、紆余曲折がありました。衆議院は通過させたものの、参議院では与党の社会党が反対に回り、法案が否決されたときは焦りませんでしたか。

政治改革関連法案成立までの道のり 連立政権と野党自民党はそれぞれ、93年9月召集の臨時国会に、衆議院への小選挙区比例代表並立制の導入を柱とする政治改革関連法案を提出した。焦点の選挙制度に関し、政府案は「小選挙区250・比例代表250」「2票制」「比例代表は全国単位」、自民党案は「小選挙区300、比例代表171」「1票制」「比例代表は都道府県単位」と違いがあった。
 衆議院での採決にあたり、細川首相は「小選挙区274、比例代表226」などとする修正案を提示。自民党は拒否したが、結局、修正案で通過した。しかし、参議院では与党である社会党の一部が反対したため、否決。細川首相・河野洋平自民党総裁のトップ会談で、自民党が求めた「小選挙区300、比例区200」などの修正を通常国会でおこなうことを前提に合意し、会期切れの94年1月29日、両院議員総会で成案可決後、衆議院、参議院でともに過半数の賛成を得て成立した。

細川 あまりよく覚えていませんけれど。そこを突破するのは大変ではありました。

――あのとき、細川さんは猛烈に巻き返しました。河野洋平・自民党総裁との間に秘密のパイプもきずき、トップ会談に持ち込んで合意。法案を成立に導きました。

細川 政治改革は私の前の海部俊樹、宮沢喜一の両内閣からの懸案。なんとしても成し遂げなければいけないと思っていましたからね。

――ただ、細川さんはこのとき、自民党が示した小選挙区比例代表並立制の修正案「小選挙区300・ブロック単位の比例代表200」を丸のみしています。政府原案の「小選挙区250・全国単位の比例代表250」からは随分、かけ離れましたね。

細川 比例を少しでも多くということで、粘り強く交渉しましたが、自民党の反対は強かった。比例もブロック単位でなく、全国単位ということで、ずいぶん激しくやりとりしましたが、最終的に、法案を成立させるため、断腸の思いで自民党案を丸のみしました。与党側が妥協してでも、政治の「土俵」をつくるべきだという世論、マスコミの声も強かったし、自民党の改革派も小選挙区300は譲れないという強硬な態度でしたから。あそこで原案を強行採決したら、政治改革はポシャっていたでしょう。
 だけど、私はもともとが「中選挙区制限連記制」論者なものですから、この選挙制度がもたらした今の政治状況は、非常に問題だと考えています。せめて原案だったら、随分違っていたと思うのですが。

二大政党制よりも穏健な多党制こそ

――と言いますと。

細川 私は「二大政党制がいい」とはいっぺんも言ったことはありません。政治改革で実現したかったのは「穏健な多党制」でした。250の全国比例があれば少数政党も当選が可能です。その結果、幾つかの政党で連立政権をつくることになり、政権選択の幅が広がる。コンセンサス重視で、ちゃんとブレーキもかかる政治になるだろうと考えていました。そこはほんとうに残念です。

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筆者

細川護熙

細川護熙(ほそかわ・もりひろ) 元首相

1938年、東京生まれ。朝日新聞記者を経て、参院議員、熊本県知事、日本新党代表、首相を歴任し、1998年に政界を引退。現在は、作陶、書、水墨、油絵、漆芸、襖絵制作などを手がける。2014年には脱原発を掲げて東京都知事選に立候補、落選するが、その後も脱原発や自然エネルギー推進などの活動を続けている。著書に『内訟録 細川護熙総理大臣日記』(日本経済新聞社)、『跡無き工夫』(角川書店)、『胸中の山水』(青草書房)、『中国の詩心を旅する』(文藝春秋)など。