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3年の空白が生んだ対立

 日本では、韓国の歴史をある程度分かっているという人でも、1945年8月15日に韓国が独立したと考えている人が多い。日本の歴史教科書などではその日、万歳をして喜んでいる人々の写真がしばしば掲載されていること、あるいは独立記念日が8月15日であることから、そう考える人が多いのであろう。

大韓民国の独立式典は解放3周年記念日の1948年8月15日、首都ソウルで行われた。この日、韓国の李承晩大統領ら多数の官民のほか、来賓として連合軍最高司令官マッカーサー元帥夫妻らが出席した。李大統領は、新政府が北朝鮮を包含し得ない事実について、ソ連を非難するとともに、今後の友好国の援助を要請した。写真は、式場のマッカーサー元帥(左)と李承晩大統領拡大「解放」から3年後の1948年8月15日、首都ソウルでおこなわれた大韓民国の独立式典に出席したマッカーサー元帥(左)と李承晩大統領

 しかし、実際に韓国が建国を宣言したのは1948年8月15日のことである。つまり、日本の敗戦から独立に至るまで3年間の「空白」があり、それを埋めるために多くの葛藤や摩擦が生まれることとなった。

 まず、基本的に押さえなければならないのは、1945年8月15日以降の朝鮮半島は、北半分をソ連が、南半分をアメリカが統治したということである。その際の韓国と日本を比べてみると、アメリカの統治手法の違いは明らかであった。

 日本において、アメリカの統治は1945年8月30日にマッカーサーが厚木基地に降り立った日に始まった印象が強い。そこで行われたのは、自由、民主主義、国際平和といった国連が標榜した理想を具現化しようとする試みであり、日本国内にそれ以前から存在した民主的な憲法作成の流れを引き継ぐ希望に満ちたものであった。

 一方、独立が達成できると朝鮮半島中が沸き立ったにもかかわらず、韓国で行われたのは従来の日本の統治に比べてやや開かれた信託統治に過ぎなかった。そして、その統治をスムーズに行うため、日本からアメリカ軍へ、権力が順次移譲された。

 つまり、統治者の顔がすげ代わったに過ぎない状態があり、その上、民族の南北分断すら起きた状況は全く韓国人が望んでいたものではなかった。そうした事態が起きた要因としては、日本の戦後統治に関しては戦時中から多方面にわたる準備が行われていたものの、韓国における軍政については計画が不十分だった点が挙げられる。

 先述のように独立を目指す勢力の中にも、海外亡命者、社会主義者、民族主義者といった路線の対立があり、そこにアメリカ軍の意向も加わって、それぞれが権力の空白地域となった韓国で様々な駆け引きを繰り返した。そうした状況の中で、日本の敗戦を受け、沸き立った韓国人の独立への期待は徐々に萎(しぼ)んでいかざるを得なかったのである。

模索を続けた朴正煕

 その混乱の中、まさに翻弄されたのが朴正煕であった。満州で露頭に迷ってしまった彼は、自らの身の処し方について途方に暮れた。 ・・・続きを読む
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筆者

金恵京

金恵京(きむ・へぎょん) 日本大学危機管理学部准教授(国際法)

国際法学者。日本大学危機管理学部准教授、早稲田大学博士(国際関係学専攻)。1975年ソウル生まれ。幼い頃より日本への関心が強く、1996年に明治大学法学部入学。2000年に卒業後、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科修士課程に入学、博士後期課程で国際法によるテロリズム規制を研究。2005年、アメリカに渡り、ローファームMorrison & Foester勤務を経て、ジョージ・ワシントン大学総合科学部専任講師、ハワイ大学東アジア学部客員教授を歴任。2012年より日本に戻り、明治大学法学部助教、日本大学総合科学研究所准教授を経て現在に至る。著書に、『テロ防止策の研究――国際法の現状及び将来への提言』(早稲田大学出版部、2011)、『涙と花札――韓流と日流のあいだで』(新潮社、2012)、『風に舞う一葉――身近な日韓友好のすすめ』(第三文明社、2015)、『柔らかな海峡――日本・韓国 和解への道』(集英社インターナショナル、2015)、最新刊に『無差別テロ――国際社会はどう対処すればよいか』(岩波書店、2016)。

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