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圧倒的な得票で再選され就任式で演説する李承晩・韓国大統領1952年8月15日韓国・ソウル特別市庁舎前広場で拡大圧倒的な得票で再選された李承晩・韓国大統領の就任式=1952年8月15日、韓国・ソウル特別市庁舎前広場で

 

朴正煕の転機

 後に保守を代表する存在となる朴正煕は朝鮮戦争が本格化する中で、自らの資質によって、立ち位置を軍隊内で改めて確立し、生活を安定させていく。

 前述のように文官として朝鮮戦争を迎えた朴であったが、開戦当日は母親の法事で帰省していた。緊急招集を受けた彼は一路ソウルの勤務地に戻ったものの、軍や政府の機能は既に水原(スウォン)に移転しており、金大中と同様、渡し船を用いて漢江を渡航したという。かつて南朝鮮労働党に所属していたために、共産党へなびくのではと軍内に懸念もあった朴正煕が必死の行程を経て水原にたどり着いたことで、軍隊内での彼の信頼は回復した。

 そして、時を同じくして彼の私生活も安定を迎える。かつて、離婚や事実婚の経験のあった朴正煕であったが、あまり結婚生活は長続きしなかった。そうした中で、彼は見合いで知り合った陸英修(ユク・ヨンス)と1950年秋に再婚する。後の話となるが、彼女は大統領夫人として夫を支え、その献身と慎ましさから「国母」と慕われていたものの、朴正煕の身代わりとして命を落とす。

 それ以外にも陰に陽に、韓国政治の中で彼女の存在は後世に大きな影響を与えていく。中でも、最も大きな出来事は1952年2月2日、朴槿恵を生んだことであろう。紆余曲折を経て、34歳で陸英修との間に子どもを授かった朴正煕は彼女をはじめ、その弟と妹の3人を非常に大事に育てた。

1950年代の苦難

 その後、朝鮮半島を混乱に陥れた戦闘は1953年7月に休戦協定が結ばれ、一区切りがつけられた。ただし、よく知られているように、これはあくまで「休戦」であり、戦闘が一時的に中断しているに過ぎない。その後、現在に至るまで南北両国の間で、数年に一度は小規模な軍事衝突が繰り返されている。そうした脅威の存在が、韓国における朝鮮戦争の原因の一つとなった「反共意識」や「対北脅威論」を継続させていった。

 また、混乱の中で韓国の大統領を務めた李承晩は、当初定めた「任期4年、再任は1回まで」という憲法の規定を半ば強引に変更し、総選挙の際には先述の金大中の事例に代表されるように野党側に妨害行為を働くことが常態化した。加えて、自らの大統領選挙の際には直前に野党候補が2度にわたって急死するといった状況も起き、建国の立役者と見なされていた李承晩の評価は大分不確かなものとなった。

 1960年3月には李承晩にとって3回目となる大統領直接選挙が行われたものの、当時の彼の年齢は84歳であり、任期満了まで大統領職にあれば88歳という、「超」がつくほどの高齢となってしまう。南北の対立が続く中、北朝鮮の指導者の金日成が当時40代後半の壮齢であったことや、不正選挙が常態化するなど民主主義を信奉しているとは感じられない政治姿勢もあって、国内はもちろんのこと、同盟国であるアメリカですら李承晩に対する懸念は高まっていた。

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筆者

金恵京

金恵京(きむ・へぎょん) 日本大学危機管理学部准教授(国際法)

国際法学者。日本大学危機管理学部准教授、早稲田大学博士(国際関係学専攻)。1975年ソウル生まれ。幼い頃より日本への関心が強く、1996年に明治大学法学部入学。2000年に卒業後、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科修士課程に入学、博士後期課程で国際法によるテロリズム規制を研究。2005年、アメリカに渡り、ローファームMorrison & Foester勤務を経て、ジョージ・ワシントン大学総合科学部専任講師、ハワイ大学東アジア学部客員教授を歴任。2012年より日本に戻り、明治大学法学部助教、日本大学総合科学研究所准教授を経て現在に至る。著書に、『テロ防止策の研究――国際法の現状及び将来への提言』(早稲田大学出版部、2011)、『涙と花札――韓流と日流のあいだで』(新潮社、2012)、『風に舞う一葉――身近な日韓友好のすすめ』(第三文明社、2015)、『柔らかな海峡――日本・韓国 和解への道』(集英社インターナショナル、2015)、最新刊に『無差別テロ――国際社会はどう対処すればよいか』(岩波書店、2016)。

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