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日本のリベラルを再構築する

過去のつまずきの石を丹念に検証しつつ、「勝ちへの貪欲さ」を持ちうるか

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

リベラル再構築のために―都市を変えた文化動員を選挙政治へ接続する

当選を決めた候補者名に花をつける立憲民主党の枝野幸男代表=10月23日午前1時、東京都港区拡大

 第48回衆議院選挙では、改憲勢力が8割の議席を占めた。リベラルは文字通り大敗したのである。

 その一因は選挙戦での選挙協力をめぐる合従連衡の駆け引きのなかで、民進党が判断を誤り事実上瓦解(がかい)したことだろう。日本の政党政治において風前の灯(ともしび)の社民党をのぞけば、ついにリベラル政党が消え去ると思われたその矢先、立憲民主党が誕生した。

 それでもこれまでの市民連合などを中心とした野党共闘によって培われてきたインフラと、元SEALDsのメンバーらによってSNSなどのツールを最大限活用することで草の根での文化動員に成功し、立憲民主党は急激に支持層を獲得した(これについては石戸諭・伊吹早織によるバズフィードの記事「なぜ#立憲民主党 は議席を伸ばしたのか? 裏方に徹した元SEALDsの力」に詳しい)。

 そして総選挙で台風の目だったはずの希望の党に終盤戦で追い抜き、ついには公示前議席15議席をはるかに上回る55議席を獲得して、2017年10月3日の結党からほんの19日で野党第1党の座についたのだった。

街頭演説会に臨む立憲民主党の枝野幸男代表(中央)=10月8日、JR新橋駅前拡大街頭演説会に臨む立憲民主党の枝野幸男代表(中央)=10月8日、JR新橋駅前

 立憲民主党が最後の演説の場所に選んだ投票日前日の新宿は、小雨にも関わらず、いままでにない熱気に包まれていた。人びとが「おたがいさま」を合言葉に、お互いの傘を畳み気遣い合う風景である。

 法の支配と民主主義をこの国に再び取り戻そうという人びとの強い意思と、その意思を伝える言葉とプラカードが都市を埋め尽くしている文化動員の風景に、路上の文化=政治次元ではすでにリベラル的なものの巻き返しが起きつつあると感じた。

 まさに「意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく」(小沢健二『流動体について』、2017年)ことを実感した風景に立ち会った時、わたしは「これは50議席を優に越えるだろう」という確信を得た。この圧倒的な都市を変えた民主主義の風景には、読売新聞や産経新聞ですら抗(あらが)うことはできず、二紙ともに選挙当日の一面に最終日の自民党の秋葉原情宣ではなく、立憲民主党の新宿バスタ前情宣を今回の選挙を象徴する写真として使用したのだった。

https://twitter.com/horiris/status/921858503068737536

この国と世界で進行しつつあること

 総選挙期間中、小沢健二が19年ぶりに発表した新譜『流動体について』を繰り返し聴いていた。世界的な極右政党の躍進とリベラルの退潮を目の当たりにして、日々なにかしら焦燥感や絶望に近いものを感じている人々も多いことだろう。毎日どこかの局面で、われわれが大切にしてきた近代的な価値観がかくもたやすくへし折られてゆく風景を、いや応なしに目の当たりにするのだから。

 すでにわたしの周囲には、政治の領域から早々と撤退して、自分の人生の質を高める方に邁進したほうが、心と体の健康の両面にとってよいのではないか、などと諦めつつある人々がいる。尊敬する友人のなかには、選挙への棄権を訴える人も出てきた。たしかに、いまの世界的な潮流が何かしら抗えないものなのであれば、かつての村上春樹が『ノルウェイの森』で政治から背を向けたのとは別の理由から政治に背を向けて、個人としての生を充実させるほうがよいのではないかとすら思えてくる。政治から撤退し自己の私生活に沈潜したくなる理由は数多くある。

 というのも、そう思いたくなるには十分なほどに堪え難い事態が、この国と世界では進行しつつあるからだ。

 2011年の東日本大震災以後、すなわち災後の日本だけをみても、デモの隆盛による民主党政権打倒の機運と自民党への政権交代にともなって、民主党政権時の「原発ゼロ」の閣議決定は事実上撤回された。特定秘密保護法も国民の強い反対を押し切り、強行採決によって成立した。メディアが批判しようものなら、テレビ局に対しては「停波」をちらつかせ、政府の意に沿わない内容については政府から直接電話がかかってくるなど、圧力をかけてくる。

 特定のメディアが狙い撃ちされることもあった。たとえば慰安婦問題をめぐり2007年に日米首脳会談で謝罪したのは他でもない当時の安倍首相だったが、朝日新聞の吉田証言にもとづく記事の取り消しで日本政府は「日本の名誉が傷つけられた」と国内向けに喧伝(けんでん)するようになった。

 さらに集団的自衛権の政府容認の閣議決定も、自衛隊発足60年の節目に合わせてなされた。安保法をめぐっても2015年安保という全国規模での歴史的な抵抗が巻き起こり、樋口陽一、長谷部恭男、石川健治といった名だたる憲法学者たちが違憲だと主張するなか、憲法の改憲手続きを経ず、当初は委員会の議事録も作成されないままに採決が強行された。

 有権者への説明責任を欠いたまま強行採決や憲法上の手続きを迂回した解釈改憲は主権在民を踏みにじり、集団的自衛権の行使容認は、長きに渡ってこの国のかたちであった平和主義からの転換を意味する。さらに2017年には共謀罪法が制定・施行され、多くの知識人がさらに口を慎むようになった。

 このように矢継ぎ早にさまざまな法案が可決成立し、メディアへの弾圧も強まり、市民的な権利はますます縮減されつつあるなかでは、もはや諦念にいたらざるを得ない人も出てくる。そうなるとかつてのストア派のように、せめて自分の心の平安だけでも保とうという気分にもなってくる、つまり「その時々でできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」(小沢健二『流動体について』、2017年)しかないのだと。

右傾化の一方で、新たな政治の萌芽も

 だが、本当にそうなのか。政治の領域から撤退して、自分の領域の守りに徹するという、それで良いのか。

 たしかにこの2010年代において、リベラルはやられっぱなしだ。だけど、小沢健二は繰り返しいう、「だけど意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく」と。

 たしかに2010年代とは、政治を良い方へと変えようという確固たる意思をもった人々が自ら動き出した時代でもある。人びとは自らの意思で言葉を練り上げ、その言葉が声となって都市に響き、自分たちで工夫して作ったプラカードにある言葉で埋め尽くされた都市の風景を変えていっていたのだった。

 15年安保への反対運動で2015年10月18日の渋谷情宣が行われたときに使用されたアンセム(賛歌)は、他でもない小沢健二とスチャダラパーの『アーバン文法』と『今夜はブギーバック』であり、スチャダラパー本人が渋谷駅前で行われた反安保のデモと集会で「とにかくパーティーを続けよう」「これからもずっとずっとその先も」と呼びかけ、「民主主義って何だ?」「これだ!」というコール・アンド・レスポンスを交えてやってみせたときのあの風景を、新宿バスタ前での立憲民主党の情宣に風景に重ね合わせて思い出していた。

 たしかにこの国は、一方で右傾化しつつあるようにも見えるが、他方で人民主権と法の支配を取り戻そうとする、古くも新しい「アセンブリー(集会)」の政治の萌芽を見出しうるような都市の風景へと変わりつつもあるのだ。

 その群れは、ただ指導者に付き従うだけの司牧者権力的な群れではない。そうではなくして、個人が個を保ちながら自らの意思で選び取り横へとつながっていく「群れの政治」である(「群れの政治」については御厨 貴/飯尾 潤 責任編集、サントリー文化財団「震災後の日本に関する研究会」 編『災後の文明』、CCCメディアハウス、2014年所収の拙稿「ソーシャル・ネットワークと群れの政治―再魔術化する日本」を、「アセンブリー」についてはJudith Butler, Notes Toward a Performative Theory of Assembly, Harverd Univerity Press, 2015., pp154-192.および、Michael Hardt and Antonio Negri, Assembly, Oxford University Press, 2017.を参照されたい)。

http://books.cccmh.co.jp/list/detail/1382/

躍進を支えたのは2011年以来の「都市の風景を変えた人々」だった

 今回の選挙における立憲民主党ならびに野党共闘の成果は目を見張るものがあったが、その躍進を支えたのは他でもない、2011年以降の路上の政治のなかで意思によって言葉を変え、言葉によって都市の風景を変えていった人々だったのだ。

 かつて安倍晋三首相に「こんな人たち」と名指しされて政府側にマークされた、その人びとが培ってきた文化動員の手法を、今回は路上における参加民主主義の政治から、選挙における議会制民主主義へと還流させ、野党共闘を前進させ55議席も取ったのである。

https://mainichi.jp/articles/20170710/dde/012/010/014000c

 たしかに、政治が強圧的になっているときに一歩踏み出すことは、とても勇気がいることだ。けれどもこれについて小沢に倣えば「宇宙の中で良いことを決意する時」には、「でもそれほどの怖さはない」のである。

 今回大躍進を遂げて55議席を獲得し、野党第1党となった立憲民主党が正面から掲げたのが、ほかでもない立憲主義である。

 振り返ってみると、近代の日本政治で憲法体制の整備と議会政治を当初見据えてその制定に着手したのは、他でもない保守主義陣営の側だった。立憲政友会の初代総裁になった伊藤博文と、その伊藤が支援した陸奥宗光の漸進主義路線は、近代日本政治における保守本流の源流の基底となった。

 その意味では、立憲民主党の枝野幸男代表が、最初に行った有楽町情宣で自らをリベラルであり保守であると規定したのは、あながち間違いではない。この保守本流として立憲主義と議会主義を重視する政治態度は、のちに原敬、西園寺公望や牧野伸顕らのような英国流の議会政治に一定の評価を示し、天皇を重臣として輔弼(ほひつ)し立憲主義を支えた「重臣リベラル」へと結実したのだった(「重臣リベラリズム」の説明については、松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男回顧談 上』、岩波書店、2006 年、199-205ページを参照されたい)。

四つの特徴からなる「重臣リベラル」

 日本政治思想史研究者の清水靖久によれば、この「重臣リベラル」には以下4点からなる特徴が認められる(清水靖久「重臣リベラリズム論の射程」『政治思想学会会報』2008年、10ページ)。

 第一点目としては、立憲主義をとりつつも自由や人権の原則に立たず、天皇に責任が及ばないことを最も配慮するので状況追随主義になった点である。

 第二に国際ファシズムに対抗して反戦ではなく国際協調主義をとる現状維持派であり、反枢軸以上に反ソの親英米派、それも圧倒的に親英派という特徴があった。

 第三に政党では民政党に近いが、暴動など民衆運動への反発は強く、第四にはイギリス中心の西欧志向型であったためナショナリズムは弱くヨーロッパ帝国主義には甘かった。

 なお丸山眞男は重臣リベラルの具体例として、元老の西園寺公望、内大臣の湯浅倉平、牧野伸顕、斎藤実の他に副島道正、吉田茂、そして新聞「日本」にも寄稿していた父の丸山幹治の名を挙げている。西園寺の周囲に集まった木戸幸一、有馬頼寧、原田熊雄らもこの列に加えることができるだろう。

 この系譜は軍部の台頭を前にして、強く抵抗することができなかったものの、戦中を経て戦後に片面講和を成し遂げ、日本政治外交史家の酒井哲哉がいうところの「9条=安保体制」(酒井哲哉「『9条=安保体制』の終焉——戦後日本外交と政党政治」『国際問題』372号、1991年、40ページ)の礎を築いた吉田はもちろんのこと、鳩山一郎、池田勇人、佐藤栄作、そして宮沢喜一へと連綿とつながっていく系譜でもある。

 つまり、かつて丸山が「保守主義なき〈保守〉」と批判した現在の自称「保守」勢力がことさらに言い募る「押し付けられた憲法」とそのかれらにとっての偽りの憲法体制たる戦後民主主義とは別に、日本の保守主義を起源としたリベラル、すなわち立憲政友会や憲政会、そしてのちの浜口雄幸の立憲民政党などの立憲主義と、議会制民主主義を重視する系譜が日本政治には連綿と受け継がれてきたのだった。

 こうした立憲主義的な伝統にくわえて、幕末明治期から戦前戦後を通じた言論におけるリベラリズムの系譜としては、福沢諭吉、田口卯吉、陸羯南、内村鑑三、長谷川如是閑、清沢洌、石橋湛山らが挙げられるだろう。これら教養主義としてのリベラルの系譜は一部の知識人や政治家、ジャーナリスト、旧制高校や旧制専門学校、旧制大学の学生や卒業生らの間で僅かに受容されたに留まったが、これらもまた細くもそれでいて現在まで長く続いているオールド・リベラルの伝統を作り上げてきた。現在の朝日・岩波知識人などは基本的にこの系譜に連なる。

 戦前は皇室に忠誠を誓いながらも軍部に屈従を強いられてきたこの日本のリベラルは、戦後初期には社会主義の台頭に伴い、今度は社会主義陣営に与(くみ)する者たちから論難される対象となった。社会主義者たちからすれば戦後の東西陣営の中で、日本のリベラリズムとは時代遅れで克服されるべきブルジョア思想、すなわち資本主義体制擁護の思想的支柱であるとして、社会主義国家建設の敵対思想と見なされ批判の対象となったのだった。たとえば転向する前の吉本隆明による丸山眞男批判などはこの典型であろう。

日本政治の語彙としての「リベラル」

 ところで日本政治の語彙(ごい)としての「リベラル」はいつ始まったのだろうか。戦後の昭和期の衆参両院の議事録を確認すると、議場において「リベラル」という表現が使用されたのはほんの126件に過ぎない。他方で平成に入ると第194回の臨時会までで324件となっており、じつに約3倍の数になっている。

 この「リベラル」という術語の激増ははたしてなにゆえだろうか。

 年限で区切ってみていくと、この語は1990年代以降多く使用されるようになっていることが観察される。1989年に「リベラル」という語が国会で飛び交ったのは、たったの5件で、1990年も1991年もそれぞれ2件ずつ、1992年にはやはり5件だった。それが1993年になると9件へと増え、さらに1994年には35件へ、1995年には44件へと激増している。

 この背景には、1993年当時、改憲に消極的な自民党の一部が社会党の若手とともに勉強会「リベラル政権を創る会」を結成したことが、重要な一因として挙げられるだろう。当時「リベラル」を自称したのは河野洋平、加藤紘一、山崎拓、古賀誠、谷垣禎一などであり、そこには当時一年生議員だった安倍晋三ですらリベラル政権を創る会に名を連ねていた。つまり、1990年代には「リベラル」という言葉がにわかにブームとなったのだ。なおリベラル政権を創る会は『『リベラル』を考える : 資料集』をno. 1~5まで1994年に出版していることからも、当時の本気度がうかがえる。

 冷戦の本格的な終焉と相まって、「保守」の対向軸が「革新」から「リベラル」へと徐々に変更されていくのもちょうどこの頃からである。この流れに棹(さお)差し定着させたのは、佐々木毅の名著『アメリカの保守とリベラル』(講談社学術文庫)だろう。共和党政権を12年も継続させた保守主義の興隆、さらにソ連解体、経済弱体化で急速に進んだ保守の分裂とリベラルの反撃など、クリントン登場までの熾烈(しれつ)な攻防を解き明かした同書の出版年が1993年であることからも、平仄(ひょうそく)が合う。アメリカ政治の二大政党制の思想基盤をそのまま日本政治でも写し鏡にする風潮が高まりはじめたことがうかがえる。二大政党制への期待が論壇で増加してくるのもこの時期をひとつの分水嶺(ぶんすいれい)としているのだった。

革新のなかの保守寄り、保守のなかの革新寄りとして

 このように1990年当時の「リベラル」は革新のなかの保守寄り、あるいは保守のなかの革新寄りとして、平等志向で、格差や不平等是正のために政府介入を考えるものとして捉えられ、徐々に定着するようになった。

 2006年に出版された『リベラルからの反撃―アジア・靖国・9条』(朝日新聞『論座』編集部編、朝日選書)では序に後藤田正晴の「遺言」が、第一章は「保守リベラルから」、第二章が「憲法改正」となっており、すでに大沼保昭によって護憲的改憲論が、また井上達夫によって9条削除論などが展開され、リベラル内における戦後民主主義への憎悪感の強さがよく現れている。なお、現在リベラルの代表格の一人になっている社会学者の北田暁大も、当時駆け出しの政治学者・国際政治学者だったわたしとともに巻末に論説を寄せている。

 他方で2000年代後半以降の日本は生活保守も含めて総保守化を迎えるようになるが、2010年代になると資本主義批判の左派とは異なり、戦後民主主義者という意味のみならず、一度下野した後の第二次安倍政権や自民党に反対する立場が汎(ひろ)くリベラルと呼称されるようになった。

 とくに2015年安保で、安倍政権への対抗言説をまとめ上げる語彙として「リベラル」という語彙が再び使用されるようになっていったのだった。2016年にリベラル政党への提言を行うべく北田・稲葉振一郎・岸政彦らの社会学者を中心とした研究者らによって「リベラル懇話会」が組織され、民進党岡田代表(当時)に提言書を提出し、また同年には北田と白井聡、そして五野井が『リベラル再起動のために』(毎日新聞出版)を世に問うて、今回の総選挙時にも再び広く読まれたのには、こうした経緯がある。

https://libekon.wordpress.com

なぜリベラルは負け続けてきたか

党首討論を前に記念撮影に応じる(右から)立憲民主党の枝野幸男代表、共産党の志位和夫委員長、希望の党の小池百合子代表、自民党の安倍晋三総裁、公明党の山口那津男代表=10月8日、東京都千代田区の日本記者クラブ拡大党首討論を前に記念撮影に応じる(右から)立憲民主党の枝野幸男代表、共産党の志位和夫委員長、希望の党の小池百合子代表、自民党の安倍晋三総裁、公明党の山口那津男代表=10月8日、東京都千代田区の日本記者クラブ

 では、なぜ近年までリベラルは負け続けてきたのだろうか。

 おそらくリベラルが目下克服せねばならない課題は、数の力への執着のなさ、情念の力の軽視、陰謀論への傾斜という3点であろう。

 まず第一点目として数の力への執着のなさである。「質の力、数の力」という点に絞って考えてみたい。この国が採用しているはずの現代民主主義の枢要な価値とは、むろん少数意見の尊重である。しかしながら、選挙で選ばれたという民主主義的正当性を盾にして非民主主義的な政策を行い、少数意見を尊重しないむき出しの権力政治の前では、民主主義の枢要な価値とそれらを体現する質の力は単なるお題目になってしまう。

 強引な政治には対しては、やはり強引な政治を凌駕する程度の数にならなければ、勝つことができない。鶴見俊輔は『思い出袋』(岩波新書、2010年)で遺言めいて「数による戦いでは数が多い方が勝つ」と述べていたが、この当たり前のことすら理解できていなかったのが、かつてのリベラルの姿である。

われわれの多くが今すぐにできること

 だからこそ、リベラルはこれからもっと「横につながること」を重視しなければならない。もちろん、横に繋がって団結するだけで自動的に問題は解決されるわけではなく、「横につながること」、そして「数となること」はあくまで民主的な手段で権力をふたたび獲得すべく、リベラルを再構築するための第一歩に過ぎない。

 グローバル企業の大株主でもなければ、何もしなくても政治家が耳を傾けてくれる財界の大物でもないわれわれの多くが今すぐにできることとは何かといえば、それは数という「構成的な力」(アントニオ・ネグリ『構成的権力』松籟社、1999年)の頭数となることなのである。

 右派は多少の差異はあってもなりふり構わず繋がって巨大な連合体の形成に成功しているからこそ、選挙には勝てている。自民党と公明党の改憲についての政治姿勢は真っ向から対立しているのは、周知の事実だ。それでもかれらは与党たらん為に、野合するのである。そうと分かれば、野党共闘は引き続き進めた方がよいし、リベラルの側も傍から見ればどうでもよい内部の「違い」にこだわって、お互いに潰し合っている場合ではないのだ。

 とにかく、勝ちを探ることにこだわらなければならない。16年の参議院選挙で野党共闘を行った1人区では、13年の2議席が11議席へ躍進、新潟県知事選挙などの成果が出ている。今回の選挙でも野党共闘で55議席の獲得に成功した。おそらくさらに野党候補の一本化が実現していたら、議席はあと10−20ほど変わってきたことだろう。

 したがってリベラル側がすべきことは、さらに選挙に勝つべく数という「構成的な力」の頭数となることである。恩讐をこえてリベラル同士が怜悧かつ戦略的に横に繋がらなければ、今後も負け続けるのだ。

 これまで自民党政権は選挙での勝利をより確実にするために、本来的には護憲・平和の党としてリベラル勢力の一角をなしていた公明党をも包摂し、野合と批判されても横に繋がることに成功している。リベラルの側に勝つために数の力となるべく選挙協力する発想がない間は、安倍政権は引き続き安泰なのである。

情念の力を軽視してはならない

 次に改善すべきはリベラル内における情念の力の軽視だろう。

 ジョナサン・ハイトは『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(紀伊国屋書店、2014年)で、何が正しくて何が間違っているのかという判断は、感情的な反応として現れた後に、言語を媒介としてはじめて論理的に正当化されることを心理学の立場から論じている。したがって、誰かの考えを変えたいのなら、論理的議論によってねじ伏せるのではなく、その人の「直感」や「感情」に率直かつ直接的に語りかけなければならない。

 この点では極右の側は神聖さと情念をあつかうことでこうした正当化にある程度成功している。代表的な利用例は日本会議と神社本庁だろう。これら団体はいずれも神聖さと権威、忠誠心そのものを強調し、自民党にとっての伝統的な農村地盤が弱くなってきたときの集票装置としていずれも選挙区割りに沿うかたちで国会議員を擁立することを可能にしているのである。

 かつて民進党代表選での玉木雄一郎議員がモットーとして「義理と人情と浪花節」を掲げた際、多くの左派知識人とメディアはあざわらったが、玉木議員の掲げたこれらはある程度情念の動員としては正しかったのだった。

陰謀論に傾斜してもならない

 第三に改善すべきは、リベラル内での陰謀論への傾斜だろう。

 投票における不正という陰謀論として近年必ずといっていいほど見受けられるのは、投票箱に仕組みがあるといった類のものである。一例としては、小型の「投票用紙改ざん装置」を取り付けることが可能なら、不正選挙は簡単にできるといったものだ。「投票用紙改ざん装置」は「鉛筆のカーボンを遊離させ、再付着させる手法をとっている、なのでフェルトペンを持っていこう」などといった荒唐無稽で事実無根な陰謀論にいい大人がはまり込んでいる。東日本大震災後の精神的不安が再魔術化を惹起し、これらの陰謀論として表出している側面もあるだろう。だがこれは、真の敗北の原因を直視しようとしていないだけだ。

リベラル勢力を再び鍛え上げ、政権交代を起こすために

 では、具体的にどうすればリベラル勢力を再び鍛え上げ、政権交代を再び起こすことができるのだろうか。政治学者の牧原出は『安倍一強の謎』(朝日新聞出版、2016年)のなかで、デイヴィッド・フラムの「政権交代へのロードマップ」を紹介している。その要点は「なぜ負けたのか」の洗い出しと「何ができるのか」である。具体的に下野した際の自民党に当てはめれば、「何ができるのか」は、第一次安倍政権にとって躓(つまず)きの石となった各所への対策を徹底的にやることに表れている。

 そこで第一次安倍内閣の失敗から学んだ第二次安倍政権の傾向と対策とは、内閣官房・内閣府の改革、大胆な金融政策、テレビ局への停波発言圧力、新聞に対するつるし上げ、野党の政策の取り込み、離反した当選者の復党容認、政権全体としてのチーム化、そして野党による将来の政権交代を阻止し政権を維持するためには、後世からいかなる評価を受けようとも、なりふり構わずやってのける姿勢であった。さらには、当然ここには先に触れた勝つための選挙協力も含まれる。

 このように、過去の躓きの石を一つひとつ丹念に検証しつつ「勝ちへの貪欲さ」をリベラル側も持ちうるか否かに、政権後退も見据えた今後のリベラルの再構築の成否はかかっているのである。

 少なくとも選挙結果に挫けてへこんだり、立ち止まって感傷に浸っている場合ではない。むしろ、いますべきことは敗北を敗北と認め、自分たちが置かれている立場をしっかりと把握した上で、変えようとしている人びととともに協力してアセンブリーを創出することだ。だから、ここであきらめずに「とにかくパーティーを続けよう」。


筆者

五野井郁夫

五野井郁夫(ごのい・いくお) 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

高千穂大学経営学部教授/国際基督教大学社会科学研究所研究員。1979年、東京都生まれ。上智大学法学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了(学術博士)。日本学術振興会特別研究員、立教大学法学部助教を経て現職。専門は政治学・国際関係論。おもに民主主義論を研究。著書に『「デモ」とは何か――変貌する直接民主主義』(NHKブックス)、共編著に『リベラル再起動のために』(毎日新聞出版)、共訳書にウィリアム・コノリー『プルーラリズム』(岩波書店)など。

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