トランプの赤い野球帽は「トーテム」だ。そこには彼らの神の名が刻印されている
2017年10月31日
突然の解散に始まった総選挙が終わった。解散前夜からの短い期間で目まぐるしく転変した政党地図に、この国の確かな将来像を見つけることのできた有権者は少ないだろう。小選挙区制は、二大政党を作って政権交代を可能にするために導入されたはずである。だが、野党には準備の時間が与えられず、野党の側も選挙協力などの調整に足並みをそろえることができなかった。これで国民に自由な選択肢が与えられたとは言い難い。
選挙の結果は海外でも伝えられているが、英語で「リベラル」という自民党の公式名称を聞くと、いつもつい一抹の違和感を覚えてしまう。この違和感は、どうやら党の内部でも共有されているらしく、公式サイトのアドレスにはLDP ではなくjiminが使われている。やはり自民党は、「リベラルで民主的な」党というより「ジミン」党なのだろう。
今回の選挙で焦点の一つとなったのは、小池百合子氏の動向であった。都議選の余勢を駆って大量の候補者を擁立したのはいかにもポピュリスト的だが、その勢いが失速したのも、党首個人の発言に大衆の移り気が反応したせいであって、ポピュリズムそのものが収束した結果というわけではない。
人びとの耳目を集めるスターが一人いて党の看板となれば、あとはそこにどのような候補者が集まろうと、どのような政策綱領が掲げられようと、あまり話題にならない。このような現状は、かたちの上では従来の政党政治が継続しているように見えても、その内実をなすべき政党という制度が腐蝕(ふしょく)して、もはや本来の機能を果たせなくなっていることを示している。
これまで政党は、国民の雑多な意見を集約し、党の内外で論議を重ねて政策を練り、そのプロセスを通して次世代の指導者を育成してきた。このような長丁場の役割が消失し、その場ごとの個人プレーにばかり関心が集まることは、けっして健全ではない。
ポピュリズムについては、国内外でよく議論されているので、ここでその定義や輪郭を論じ直す必要はないだろう。だが、なぜこの時代に各国でポピュリズムが跳梁(ばっこ)するようになったのかを理解することは、一部の職業的な政治家や研究者だけでなく、現代民主社会を生きる市民に共通の課題である。
ポピュリズムの相貌は、通時的にも共時的にも多様である。ポピュリズムは、民主主義の拡大期にはこれを後押しする勢力となり得るが、民主主義の成熟期には逆に反動的な破壊力をもつ。
ポピュリズムに対する評価も大きく賛否が分かれる。一方には、ポピュリズムをリベラルな民主主義に対する補完的ないし闘争的な理念として肯定的に見る人びとがあり、他方にはこれを民主主義の病理や影、深刻な脅威ないし歪曲(わいきょく)と見る人びとがある。
ポピュリズムが組む相手先も多様である。近年のヨーロッパでは排外主義と国粋主義を掲げるポピュリストが目につくが、アメリカのオキュパイ運動やサンダース候補の支持者たちは左翼の漸進主義だったし、中南米のポピュリズムは反帝国主義と反自由市場を伴った社会主義を標榜(ひょうぼう)することが多い。このような融通無碍(ゆうずうむげ)の性格こそがポピュリズムの特徴であることは、前回の本欄で述べた通りである。
ポピュリズムと民主主義―オランダが問いかける(WEBRONZA)
ポピュリズムで起きていることをもっとも簡潔に要約すると、「多数決支配」と「少数者擁護」との衝突、ということになる。民主主義のベアミニマム(必要最小限の要素)といえば、人民主権と多数決原理による民衆の自己支配である。
だが、リベラルな民主主義においては、それ以外にも尊重されるべき要素がいくつか存在する。たとえば、基本的人権の尊重であり、少数者の擁護である。つまり、「多数者の支配」が「多数者の専制」になっては困るので、それを防ぐために、立憲体制や法の支配、権力の分散とチェック&バランス、あるいは報道の自由の保障などといった要素を付加することで、個人の権利や少数者の人権を擁護する、という配慮が必要になるのである。
ポピュリズムが衝(つ)くのは、まさにこの点である。つまり、ポピュリズムの矛先が向けられているのは、ミニマムな民主主義ではなく、リベラルな民主主義である。
リベラルな民主主義は、現代自由社会では当然の要請とみなされるようになっているが、実はそこには最初から緊張ないし矛盾が孕(はら)まれている。それが、「多数者支配」と「少数者擁護」との対立である。
ポピュリズムは、この対立につけ込み、これを最大限に悪用するゲームを展開する。だからポピュリズムの目指す社会は、非リベラルな民主主義になる。つまり、多数決で政権を掌握した人民の代表として、民主主義の名のもとに少数者を抑圧するのである。
多元的なチェック&バランスの機構を内蔵する現代民主社会にあって、このような抑圧に歯止めをかけて少数者の人権を擁護するのは、司法の役割である。だからポピュリストは、司法権力に対して強い不快感をもつ。
イタリアのベルルスコーニ元首相は、選挙で選ばれていない裁判官が「赤い法服」(左翼主義)を纏(まと)って自分の邪魔をすることを繰り返し批判した。就任したてのトランプ大統領は、自分の出した入国禁止令に「待った」をかけた連邦地裁の裁判官にあからさまな侮蔑をあらわし、三権分立に疑問を呈した。彼らは、多数決で選ばれた自分の権力から独立し、これに対抗しうる司法権が存在することに、どうにも我慢がならないのである。
ひるがえって、日本の政治家たちはどうか。日本では、たとえポピュリストであっても、そこまで司法への強い反感を抱かないようである。その理由はしかし、ポピュリストの側ではなく司法の側にあるように思われる。日本の司法は、繰り返される議員定数是正や防衛関連の訴訟判決に明らかなように、立法府や行政府に対して極端に自己抑制的だからである。換言すれば、日本の司法はポピュリストをいら立たせるほどの邪魔にならない。これはこれで大きな問題だろう。
前回の本欄では、ポピュリズムと反知性主義に通底するものとして、既存の権力体制を担う知的エリートに対する大衆の反感があることを説明した。
トランプ氏のかぶる赤い野球帽は、アメリカ文化の象徴体系においては、まさに「反インテリ」で「反エスタブリッシュメント」という強いメッセージを発している。
今回は、この点をもう少し踏み込んで説明しよう。
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