政治と「軍」との関係をめぐる議論を深め、行政、国会などの統制を具体的に考えよ
2017年11月22日
憲法改正における最大の論点は9条にあります。なぜかと言うと、自衛隊を保有し、戦力を少しずつ増強してきた結果、2項の「陸海空軍およびその他の戦力を持たない」という規定と現実とが、著しく乖離(かいり)してしまっているからです。
第1次世界大戦の後、大戦争をはじめた側の敗者は攻撃国家(aggressive state)とみなされるようになりました。そうした国の軍は解体され、再軍備もしばらく制限されます。日本も敗戦によって軍を解体されました。その意味で、9条2項は典型的な敗戦国条項です。
20世紀の大戦争は我々に幾つも教訓を残しました。ドイツは第一次世界大戦に負け、領土を減らされ、再軍備を禁止され、高額な賠償金を科された結果、世界的な大恐慌の不安と相まってナチズムが勃興。奪われた領土の「失地回復」と拡張に向かいました。
国家主権の平等性を前提とすれば、再軍備を永遠に禁ずることは不可能です。そもそも、特定の国だけが攻撃国家であるという前提がおかしいのです。
現に中国は今年の共産党大会で、「失地回復」の可能性を匂わせる演説を、習近平国家主席がおこなっています。中国が半植民地化され、あるいは侵略された過去に対する「失地回復」の範囲はどこまで及ぶのか。現状の国際社会の安定を崩すのではという不安を呼び起こしています。
こうした歴史を踏まえれば、日本における9条改正の最も重要なポイントは、「再軍備した日本が引き続き平和国家であること」を内外に保証する点にあります。
戦後72年も経てなお、その点を強調しなければならないことにはいささか時代遅れの感もありますが、英エコノミスト誌が、日本の憲法改正に際して「韓国や中国の反発を気にする必要はなく、世界の平和のために必要だ」と明言したのは注目すべき変化です。日本の憲法改正を平和への懸念材料とする発想が、欧米のエスタブリッシュメントから消え去りつつあることを示すからです。
要は、世界が気にすることも、日本国内の議論がフォーカスするべきことも、憲法改正を経て再軍備路線を明文化した日本が平和国家であり続けるための、具体的な条文や仕組みについてなのです。
9条2項の削除は国内的にある種の微妙さを含んでいます。なぜか。保守政権をよしとしなかった革新勢力にとって、9条がナショナリズムの代替物であったからです。
イマニュエル・カントは『永遠平和のために』の具体的な提言のひとつに常備軍の廃止を掲げています。君主国同士が相争う当時のヨーロッパを目の当たりにして、カントは侵略戦争を可能とする手段(常備軍、戦時国債)を君主から奪い、国際法を形成し、各国が代議制民主主義(本では共和政)に転換し、外交官やビジネスマンの相互交流を保証することが、永遠の平和を達成すると考えました。
日本の平和思想はこうしたカントの思想を下敷きに、憲法9条がその実現に向けた嚆矢(こうし)たることを謳(うた)っています。その立場からすれば、自衛隊を認知するのではなく、軍縮こそが望ましい。条文に合わせて現実を変えるべき、ということになるのでしょう。
革新勢力にとって憲法9条はナショナリズムの代替物であると先に申し上げました。別の言い方をすれば、大戦争を引き起こした大日本帝国の上層部や旧軍を憎むとともに、戦後アメリカに支えられてきた一党優位体制の保守政権をも憎む彼らにとって、9条こそが自意識を支える最大のよりどころであったということです。
しかし、ここには「弱さ」があります。日本国憲法の起草者がほかならぬ占領軍であるという事実によって、憲法の起草者の「意図」という、憲法論議をする際に立ち戻るべき地点があいまいになっているからです。憲法の起草者の「意図」が外国の占領軍の「意図」であるという歪(ゆが)みは、日本の左、右双方の意識を蝕(むしば)んできました。
戦後一貫して自衛隊を違憲としてきた社会党は1990年代半ば、自民党などとの連立政権で首相になった村山富市党首のもと、自衛隊を合憲だと認めます。この瞬間、自衛隊の政治的な「認知」は完成したけれども、憲法典から離れて軍を持つに至ったという自意識が醸成されることのないまま、今日に至ってしまいました。
今回、安倍晋三首相が9条1、2項を残して3項に自衛隊を明記する構想を打ち出したのは、自衛隊の存在を憲法上も「認知」させようという意図に他なりません。それは、村山元首相が踏み出した「自衛隊合憲宣言」の延長線上にあり、日本が常備軍廃止へ向かうことは、見通せる将来はありえないという立場を、国民的合意にしようというものです。
とすれば、2項を削除しないのは、一見不可解な態度に見えます。思い浮かぶのが、公明党がそれを頑強に拒んでいるという政治的理由ですが、おそらくそれだけではありません。
保守の安倍首相が、そこまで革新に歩み寄ってでも9条改正を目指すのはどうしてか。いわゆる「戦後レジーム」の幕が保守の手によって下ろされるという政治的象徴性を取りにいっているのではないでしょうか。
自衛隊を明記することで、自衛官を非倫理的な職業であると非難したり、自衛隊をなくせとデモをしたりすることがやりにくくなる。政権が狙うそうした心理的効果こそが、現実主義の勝利というかたちで「戦後レジーム」を終わらせることを象徴的に示す。そう、私は感じるのです。
自衛官を適切に認知し、万が一犠牲になった場合に十分な慰霊をするのは、軍を持つ国としては当然です。それを怠ってきたという良心の呵責(かしゃく)が、革新陣営の一部にも存在している。それは、常備軍廃止の条項を誇りにしながら、アメリカ軍に頼り、自衛隊に頼ってきたことの矛盾への忸怩(じくじ)たる思いです。
しかし、その忸怩たる思いをつく自衛隊明示の案は、どこか盛り上がりに欠けます。それは、具体的な変化を伴わず、十分に前向きでもないからです。この国をどのように変えるのかという「理想」を語る要素が抜け落ちているからです。そこには、厳格過ぎるほど厳格な平和主義を緩めたという後ろめたさや、もはや「特別な国」とは言えなくなるためらいもあるでしょう。「どうせ、ちょろっと書き込むだけでお茶を濁すんでしょ」というシニシズムもあるのかもしれません。
そうではないと私は思っています。自衛隊を認知させることだけでも大きな意味がある。そのうえで、本稿ではその一歩先を見据えた建設的な提言をしたいと思います。
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