権力拡大の改憲は論外。権力を統制する改正を視野に国民・政治家は憲法と向き合え
2017年12月26日
政治家は選挙のたびに大量のアンケートの山に囲まれるが、常に頭を悩ますのが、「改憲に賛成か反対か」、あるいは「あなたは護憲派か改憲派か」という類の質問だ。
私は、権力者による権力拡大方向の改憲には断固反対だが、国民の側から国家権力を統制する方向の改憲、すなわち立憲的改憲議論は積極的にすべきだと考える。
とりわけ、安倍政権下で現行憲法が機能不全に陥っている現象を目の当たりにした現在、安倍政権の横暴を正すべく、権力統制規範たる憲法の「価値」を守るため、憲法の「文字」を変える必要があると考える。
したがって、私は憲法の価値を守るという意味では「護憲派」であるが、憲法典の文字に焦点をあてるならば、「改憲派」である。
本来、憲法は権力統制規範である以上、「改憲」とはこの権力統制規範力を高めるものでなければならない。
その点、ここ数年自民党により提示されてきた「権力者による権力拡大方向の改憲」は、権力統制規範力をむしろ低下させるものであって「憲法改悪」にほかならない。
とりわけ安倍総理による「自衛隊明記」提案の本質は、歯止めなき自衛権の根拠規定を憲法に新設することにある。まさに自衛隊の最高指揮権者が、国家権力を最も先鋭化させる自衛権の歯止めを自ら外し、憲法による自衛権統制規範力をゼロにするものであって、グロテスクな「最悪の憲法改悪」である。
日本の憲法論議の不幸は、権力を拡大する「改憲」提案しかほとんど経験しておらず、権力者をしばる本来の「改憲」提案がされてこなかったことにある。
今こそ硬直化した「改憲議論」から前進し、「権力をしばる改憲」という本質的かつ新しいコンセプトのもと、野党と国民がプレーヤーとなって幅広い議論をかわすべきだ。憲法改正を通じて、国民の意思により、国家権力に対する統制力を高めることは可能である。
もちろん、安倍総理に対しては、「変える前に守れ」と声を大にして言い続けるが、安倍政権ですら守らざるを得ないよう、規範力の高い憲法に変えることは可能なのである。
本稿では、こうした立憲的な憲法改正の思考のスタートラインを示したい。
そもそも、現代の日本社会は、憲法改正を必要としているか否か。
憲法は、「国家の権力を統制し、国民の人権を保障する」役割を担っている。とするならば、立てるべき問いは、「現代において、現行憲法は、国家の権力を統制し、国民の権利を保障するという役割を十分に果たしているか」ということになる。
この役割を果たしていれば変える必要はないし、果たしていなければ変える必要がある。
この点、第2次安倍政権のもとでは、たとえば以下の現象が起きている。
① 憲法9条があるにもかかわらず、集団的自衛権の一部を認める安保法制が成立した。
② 憲法69条、7条のもと、大義なき解散が頻発している。
③ 憲法53条の要件を満たした臨時国会召集要求が無視されている。
④ LGBTの権利保障が不十分で、与党幹部から差別的発言がなされ、LGBT差別解消法が審議拒否され、同性婚も認められていない。
⑤ 国家が保有する情報に対する国民のアクセスが十分に保障されず、南スーダンPKOの日報問題や森友・加計問題の真相解明が進まない。
⑥ 共謀罪の成立により、捜査権力による国民のプライバシー権制約は侵害のレベルにまで達しようとしている。
こういった現象は、立憲主義を尊重しない国家権力に対する、現行憲法の予想外の脆(もろ)さを露呈させた。
言葉を変えれば、現行憲法は「安倍政権」を予定していなかったのである。
しかし翻って考えてみると、憲法の役割の神髄は、立憲主義を尊重しない横暴な国家権力をこそ制するものであるべきだ。第2次安倍政権のもとで、上記に象徴されるような憲法の機能不全が生じているなら、その不全を改善するための憲法改正から逃げるべきではない。
では、憲法をどのように改正すれば、機能を回復・強化できるのか。
そもそも、上記のような現象にいたる原因の共通項はなにか。
ひとつ目は、日本国憲法の「規律密度」が相対的に低いため、その行間を埋めてきた憲法解釈を尊重せずに、むしろ行間を逆手にとって解釈を恣意(しい)的に歪曲(わいきょく)するタイプの政権に対して、その統制力が弱いことである。ふたつ目は、そのような政権の恣意的憲法解釈を正す現実的手段を予定していないことである。
前者に対しては、日本国憲法の規律密度を高める、すなわち行間を埋めてきた適切な解釈を明文化することなどによって、恣意性の余地を極力減らすことで対応すべきだ。
後者に対しては、政権の恣意的憲法解釈を事前にチェックする機関として、政権から独立したいわゆる「憲法裁判所」を設け、チェックを委ねることを、積極的に検討すべきである。
こうしたチェック機能は、これまで内閣法制局が担ってきたが、その独立性・中立性をかろうじて担保してきたのは、人事上の不文律であった。すなわち、法制局長官人事は形式的には「政治任用」でありながら、事実上「行政任用」ポストとして政治が直接関与しないという不文律である。
この人事の不文律を破り、安保法制合憲論の人物を長官に据えたのが安倍政権であり、それこそ解釈や慣例や不文律を尊重しない政権の真骨頂ともいえよう。しかし、このような政権が登場した以上、不文律による内閣法制局の独立性・中立性に依拠することはもはや不可能である。
であるならば、必要なのは、三権分立のもとで明確に制度的独立が担保されている「憲法裁判所」による、閣法の事前の憲法適合性判断を制度化である。もちろん、この裁判所の人事権について、内閣からの独立性を強化すべき工夫が必要なことは当然である。
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