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NHK受信料訴訟、判決は現状追認で肩すかし

放送行政の主導権を市民に取り戻し、真の意味で「私たちのNHK」を作ることが必要だ

山田健太 専修大学人文・ジャーナリズム学科教授(言論法、ジャーナリズム研究)、日本ペンクラブ専務理事

現状肯定にとどまった判断

NHK放送センター(撮影:吉永考宏)拡大NHK放送センター(撮影:吉永考宏)

 注目されたNHK受信料をめぐる最高裁の憲法判断が、昨年12月6日にあった。結果は肩透かしであったが、あえて好意的に言えば、現状肯定にとどまったことは「評価すべき」ことなのかも知れない。

 この裁判はもともと、受信料の支払いをめぐる訴訟で、放送法64条が定める受信契約の義務と、民法上の契約自由の原則との関係が、憲法上の観点も含めて問われることになった。その結果、1950年の放送法施行以来初めて、受信料制度の意義ひいては日本の放送制度の仕組みが、最高裁で判断されたことになる。

 最高裁は全員一致で合憲判断を示し、受信料制度を「憲法が保障する『表現の自由』のもとで、国民の知る権利を実質的に充足する目的にかなう合理的なもの」とした。一方、受信契約の成立については、「双方の意思の合致が必要」という判断とともに、未契約者に対しては最終的にはNHKが訴訟を起こし、勝訴した時点で契約成立となる、という判断が示された。

 それではいったい最高裁判所は何を言い、何を言わなかったのか。その意味をどう解釈できるか。その結果、NHKはどうなるのか。こうした観点から判決を読み解いていきたい。なお、判決そのものの内容と評価については、すでに公表済みの拙稿(琉球新報ウェブサイトhttps://ryukyushimpo.jp/news/entry-627821.html)を参照いただければ幸いである。

■判決が言わなかった意味

 最高裁は判決で、日本の放送制度の特徴として、NHKと民放(民間放送)の2本立てであることを挙げ、それが好ましいという前提に立って、公共放送たるNHKは、みんなで支えるものだとした。しかし、なぜ2本立てが優れているのか、公共放送とは何か、さらにいえば、NHKが公共放送足り得ているのか、についてはその解を示すことはなかった。あくまでも、現状追認がこの判決のいわば最大の特徴であったわけだ。

 これに対しては、物足りない、論拠不十分などの批判がある。しかしはたしてそうか。司法=公権力に、法の定めがない「公共放送」について、一方的に定義されるということが本当に好ましいかは疑問だからである。

 同様に、2本立て放送制度についても法には確たる根拠がない。放送法は、NHKを特別な放送として総論とは別に規律を置いているものの(逆に言えば「民放」の規定はない)、それをもってNHKと民放による併存体制がベストな放送制度であるということにならないのは言うまでもない。

 こうしたいわば、政府の「都合」で規定されている現行制度に、司法がお墨付きを与えることも、決して手放しで喜ばしいことではないからである。

 それからすると、冒頭に述べたように、今回の中途半端な最高裁判決は、身の程をわきまえた判決として評価しうるものだということになる。もし、訳知り顔に最高裁が「公」を規定したとすれば、すでに毎日新聞への寄稿(毎日新聞ウェブサイトhttps://mainichi.jp/articles/20171214/ddm/004/070/005000c)で示したように「公権力による公共の押し付け」であって、むしろ危惧すべき対象であったということだ。ただでさえ、いまの時代、「公」が国家利益を指す機運が高まっている。お国のために個としての自由を制約されてもやむを得ない、という考え方である。

 当然のことであるが、国家利益と国民(市民・住民)の利益は一致しないどころが、往々にして反する場合がある。最近でいえば、沖縄の米軍基地新設や米軍ヘリの安全性をめぐる問題はその典型例であろう。にもかかわらず、この国家利益が、そのまま政府益と読み替えられている気配すらある。

 日本では従来、公共図書館や博物館等の多くが公営であることに始まり、本来の「公=みんなのため」ではなく、「公=公営=国・自治体の管轄下で利用する施設・サービス」という意識が強い。

 勘ぐろうと思えば、そうした意識を受けて最高裁が公共放送を規定している可能性も否定できない。

 さらに判決では「公共の福祉のための放送」をNHKに求めていることも関係してくる。現政権は、公共の福祉を「みんなの幸せ」ではなく「国家秩序の維持」であったり、はたまた「政府方針のスムーズは執行」と言い換えかねない危険性をはらんでいる。

 そうなると、公益=国益のために、国民の権利・自由を制約することになりかねないのであって、そうした公共の福祉を実現するのが公共放送の役割だと規定するのであれば、それは「国営」放送を目指すことに他ならないだろう。それからしても、最高裁が判断や定義づけした場合、それは必ずしも「望まれるNHK像」とは乖離したものになっていたのではないかと思うのである。

■民放は公共放送ではないのか?

 最高裁はNHKが公共放送にあたるとするが、そもそも民放は公共放送ではないのだろうか。現実には、日本の民放は極めて公共放送的である。たとえば、放送法で定めがあるNHK同様に、民放も実際には「あまねく」全国津々浦々に放送するための設備投資を厭(いと)わない。

 さらにいえば、判決が挙げた災害時の公共放送の役割についても、NHKだけではなく民放も十二分にその役割を果たしていることは、東日本大震災の際にも十分証明されている。あるいは、地震や防災の速報・情報に関しても、NHKと民放はほぼ同じ情報を流しているのが実態だ。

 たまに空振りする緊急地震警報でも効果が疑問視されるJアラートでも、そして台風や地震が発生した際の津波や暴風雨などの注意報も、両者に相違はない。まさに、公共放送としての放送が民放においてもなされているといえるだろう。 ・・・続きを読む
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筆者

山田健太

山田健太(やまだ・けんた) 専修大学人文・ジャーナリズム学科教授(言論法、ジャーナリズム研究)、日本ペンクラブ専務理事

1959年生まれ。主な著書に「放送法と権力」「見張塔からずっと」(いずれも田畑書店)など。

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