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奇妙な日本人の憲法観

道徳律と憲法を混同。生き方の問題になった9条。憲法改正で何が語られるべきか

三浦瑠麗 東京大学政策ビジョン研究センター講師

憲法は誰を縛るのか

自民党本部で開かれた憲法改正推進本部=2月21日、東京・永田町拡大自民党本部で開かれた憲法改正推進本部=2月21日、東京・永田町

  憲法とは、権力を縛るためのものである。憲法改正や憲法解釈をめぐる論争では、リベラルや憲法学者から必ずといってよいほどまずはじめに発されるメッセージです。それに対して、一部の憲法学者からは、昔のような国王に対する制限をかけていく立憲主義のかたちではなくて、最近の憲法観では国家構成員である国民相互の約束と権利義務を定めるものへと変化してきているという主張が行われます。

 両者は全く平行線のままで、お互いに譲ろうとしません。なぜこのような論争が起きてしまうのか。それをまず、ひもといてみましょう。

 憲法が権力を縛るためのものであることは当たり前のことです。日本国憲法ではまず、天皇という戦前には圧倒的に強力であった存在を、儀礼的な国の象徴とすることで、天皇が権力となる道をふさいでいます。さらに、三権分立という現代の民主国家で一般的にとられている権力均衡のシステムを備えることで、権力への縛りを達成しようとします。そして、国民の権利を明記、また政府がやってはならないこと、しなければならないことを明記することで、大まかな憲法の骨格が完成するわけです。制度的な手続き論は、その目的に従って細かく定められていくことになります。

矛盾しないふたつの立場

 では、憲法が国民相互の約束と権利義務を定めるものであるという考え方は間違っているのでしょうか。

 義務をどこまで定めるのかという考え方には、いろいろな立場があり得ます。例えば、私は国民に納税の義務はあると思いますが、国防の義務があるとは思っていません。ホッブズでさえ、国民は命を賭して最後まで戦う必要はないとした。私は、国家は国民を守るために求められて存在していると考えていますので、国家は国家として国民を守るための仕事をすべきだと考えており、国家がその任を果たさなくなったならば、その国は滅びたり衰退したりするのだと思っています。

 国民相互の約束という性格は、議会を設けたり、公共の福祉の考え方にそって利害調整をしたりする時に生まれてくる考え方だと思います。すなわち、国民は内戦をせずに行政府を監視するために、立法府に代表を送り込み、選挙を通じて意思表明する。また、利害が衝突する場合、人にはすべての自由が許されるのではなく、あくまでも他人の自由を侵害しすぎない範囲で調整が行われます。

 ということは、本来両者の考え方は(治安のための措置や国防の義務などのいくつかの具体的な論点では論争が生じうるとはいえ)矛盾するわけではないはずです。つまり、憲法はまずもって権力を縛るものである一方で、前文に書かれたような世界平和という理想を目指す国民の宣誓でもあり、かつ国民を守るために存在する国を、納税などを通じて支えていく国民相互の約束でもあるということです。

 にもかかわらず、両者が激突するのはなぜか。背景にあるのは、保守の憲法観に潜む日本独特の道徳律に他なりません。

風土が生み出した日本の憲法観

  日本の憲法観は、人民が神の前において誓うといった米国的なものではありません。米国は後発の「人工国家」であるがゆえに、常に憲法に忠誠を誓うという感覚知が社会に存在します。それゆえ、毎年新しく国民となる移民は、憲法を勉強しなければなりません。

 日本社会において厳然と存在するのは、神ではなく、むしろ道徳である。だから、規範というものが、社会道徳に流れ込んでしまう構造が常にあります。また、日本の地に日本人の父母のもとに生まれた人が大多数を占めるため、日本人であることの必然性は原則ではなく経緯に根差すことになる。

 神に、あるいは神の前で国家をつくり同じ国民たるべく誓うのであれば、憲法というものが、社会で異なる人々が殺しあわずに共存するための取り決めであり、かつ権力を人民が縛るものであることがもっと容易に理解されたでしょう。けれども、日本社会においては、それが社会の相互監視や、お上による定めと受け止められてしまう風土があるわけです。

「いいことだから憲法に書くべき」ではない

 だからと言って、立憲主義を支える憲法が、単なる「道徳律」に堕していいわけがない。そうなると、独自の歴史的進化を遂げてきた日本の近代主義に対する冒瀆(ぼうとく)にもなるからです。

 こう言うと、決まって飛んでくる反論に、「だけど、いいことじゃないか」というものがあります。家族を大切にすることはいいことじゃないか。結婚を通じて子供を産み育てることはいいことじゃないか、と。もちろん、世の中にはいいことはたくさんあります。

 英語で「マザーフッド&アップルパイ」という言い回しがあります。いいに決まっていることの総称です。そこには、「当たり前で、大して意味のあることを追加的に言っていないじゃないか」というようなニュアンスも含まれています。

 いいことを単に言うだけなら簡単です。でも、複数のいいことが相互に対立する場合もあるかもしれない。書いただけでは実現もしません。理想があるのならば、それを実現する難しいプロセスを考え、反対する人と議論し、実行に移していくことこそが政治であって、憲法はそのような人々が合意形成を行い、政治を行うための骨格を準備するものです。

 言い方を変えれば、「いいことだから、憲法に書くべきである」とはならないのです。いいことであっても、道徳律なのか、憲法で定めるべき規範なのかという観点から、憲法に書くべき事柄かどうかを判断する必要があるのです。憲法に「母の日にはお母さんに電話をかけましょう」とは書かないし、「温泉につかるとき手ぬぐいを湯船にいれてはいけません」とも書かない。自分がいいと思う価値観や道徳を単に主張することと、憲法に入れ込んで人に強制してしまうこととは、次元の違う話です。

 いいことは、雑談で話している分には問題ない。でも、アップルパイが好きな人が大半だったとしても、そこにアップルパイが嫌いな人がいたらどうでしょうか。アップルパイを食べなさいと推奨すべきではないですね。

問題の本質はどこに

 両親がいない人、家族に冷たくされたトラウマを持つ人にとって、家族を大切にしましょうと憲法や法律に書いたならば圧迫にもなりうるし、政府が、自らの責任を放棄してしまうことにもつながりかねません。家族を大切にしようとするあまり、家族を持っていない人に不利益が及ばないよう、人々の自由な選択に配慮する必要があります。

 憲法に道徳を書きたいと思った方々は、むしろどうしたら幸せな家族が増えるのかを考えなければいけません。それは例えば、虐待されている子供を行政が早期に発見したり、高齢者介護の負担がのしかかり過ぎないように社会福祉を提供したり、家族を持ちやすいように雇用環境を安定させ保育施設をつくったりすることかもしれない。

 保守が裡(うち)に抱える道徳律と憲法概念の混同ゆえに、それに反発する陣営が、憲法を行政府の手を縛るものとしてしか見なくなってきている。それこそが、この問題の本質なのです。

憲法問題に熱くなるわけ

 それにしても、憲法をめぐる問題は、どうして我々をここまで熱くさせるのでしょうか。憲法が立憲主義を体現するもので、法の支配を支える最高法規だからでしょうか。本来は、そうあるべきなのかもしれません。しかし、現実は、おそらくそうではない。

 それは、憲法、特に第9条が、我々がどのように歴史を解釈し、自らのアイデンティティーをどう定義するかに深く関わっているからです。 ・・・続きを読む
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筆者

三浦瑠麗

三浦瑠麗(みうら・るり) 東京大学政策ビジョン研究センター講師

1980年神奈川県茅ケ崎市生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。専門は国際政治、比較政治。主著は『シビリアンの戦争―デモクラシーが攻撃的になるとき』(岩波書店)。政治外交評論のブログ「山猫日記」を主宰。公式メールマガジン、三浦瑠麗の「自分で考えるための政治の話」をプレジデント社から発行中。共同通信「報道と読者」委員会第8期、9期委員、読売新聞読書委員。近著に『「トランプ時代」の新世界秩序』(潮新書)など。