沖縄の軍用地返還は「負担軽減」ではない。「新たな負担」だ
2018年05月29日
沖縄県北部に広がる「やんばるの森」は、国内最大級の亜熱帯照葉樹林だ。環境省は世界自然遺産への登録を目指している。
しかし、森にはもう一つの顔がある。「米軍北部訓練場」として長らく使われてきたのだ。
2016年にその過半が返還された際、日米両政府は「復帰後最大規模の土地の返還」「沖縄の負担軽減」と強調した。だが、厄介な問題が発覚するのに、そう時間はかからなかった。森のあちこちから、照明弾、ペイント弾、タイヤ、バッテリーの一部といった廃棄物が続々と出てきたのだ。
艶やかな緑の木々の合間に残された無機質な廃棄物は、北部訓練場がベトナム戦争中から米軍のゲリラ訓練に使われていたことを物語る。そこには世界自然遺産候補地のイメージとはかけ離れた、灰色の歴史の跡が刻まれていた。
沖縄では、米軍から返還された土地の汚染が次々に発覚している。軍用地の返還は、日本政府が強調するような「負担軽減」ではない。「新たな負担」なのだ。
返還軍用地の汚染の実態が浮き彫りになったのは2013年、沖縄市サッカー場(1987年返還)でドラム缶が見つかり(最終的に108本)、ダイオキシン汚染が発覚した時だった。
工事現場からドラム缶などの廃棄物が発見されることはままあることだが、サッカー場の一件は尋常ではなかった。ドラム缶表面に米軍がベトナム戦争中に使っていた化学兵器・枯れ葉剤の製造会社名が書かれていたからである。
「沖縄なくしてベトナム戦争は戦えない」。ベトナム戦争が泥沼化した1965年12月、星条旗新聞の見出しを飾った米太平洋軍トップ、グラント・シャープ司令官の言葉である。沖縄は前線基地だった。
沖縄からベトナムへ、兵士や武器だけでなくタバコやトイレットペーパーまで送り込まれた。フェンス一枚隔てた米軍施設内に何が貯蔵され、戦後どう処理されたのか、沖縄の人たちは知る術もなかった。
サッカー場が返還されてから26年後、地元沖縄市と沖縄防衛局が別々に実施した土壌調査では、ともに環境基準を上回るダイオキシンが検出された。沖縄市は枯れ葉剤の可能性を示した。一方、沖縄防衛局は枯れ葉剤の存在を認めず、両者の評価は食い違った。
この土壌調査は、米軍に使われた土地が汚染されている可能性や、汚染されていることを知らないままその土地で沖縄の人たちが暮らしている可能性を突きつけた。サッカー場の地中に埋まったドラム缶はパンドラの箱だったのだ。
琉球朝日放送の取材班は、返還軍用地における土壌汚染の実態を可視化するため、汚染地図を作成した(=冒頭の地図)。
基データとして、日米両政府や沖縄県などの公式発表・公文書、それらを基にした新聞記事や著作を引用した。取材を進める最中に米軍嘉手納基地などで燃料漏れなどのトラブルが発生したため、現在使用中の米軍施設も含めた。
汚染現場を地図に落としてみると、少なくとも県内20カ所で、土壌汚染が発覚していることがわかった。沖縄本島では、北は国頭村の北部訓練場から、南は浦添市の牧港補給地区までの全域に汚染地帯は広がっている。
汚染物質も、ダイオキシンを始め、鉛や油など様々だった。このうち、PCB(ポリ塩化ビフェニル)は4カ所、ダイオキシン汚染は3カ所で確認された。油(軽油、重油、航空機燃料など)の汚染は最も多く、嘉手納基地や普天間基地を始め11カ所で起きていた。さらに8カ所で鉛汚染が発生していた。
注目すべきは、飛行場や弾薬庫といった土壌汚染が予測される施設跡だけでなく、ゴルフ場や住宅地などに使われた場所でも鉛や油の汚染が発覚していることだ。
米軍が土地をどのようにして使っていたかを推測するのは難しい。まだ入手できていない資料もある。また、嘉手納基地の燃料漏れなどの多くについては日本政府は関知しておらず、米国の公文書で明らかになった。この汚染地図に示した現場は、氷山の一角である。
なぜ汚染が放置されたまま返還されるのか。
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