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集団主義・勝利至上主義と悪質タックル問題

日大の選手は、なぜ、ボールを持っていない選手の背後からタックルをしたのか?

鈴村裕輔 名城大学外国語学部准教授

問題にならないはずが……

 最初は特に問題になるようなことはないと考えていたにもかかわらず、次第に周囲から疑問の声が寄せられるようになったため、微温的な対応を行って事態の収束を図ったものの、実際には社会的な批判の対象となり、「お家の一大事」ともいうべき状況に発展している。

 5月6日(日)に行われた関西学院大学と日本大学のアメリカンフットボールの試合で日本大学の選手が反則行為によって相手選手を負傷させた一件は、今やスポーツの試合での出来事という枠組みを超え、日頃はアメリカンフットボールに親しんでいなかった人びとも大きな関心を抱く、社会的な問題となっている。

 ルールの順守が絶対のスポーツにおいて、何故、ボールを持っていない選手が背後からタックルされるという明白な反則行為が起きたのだろうか。本稿では、日大の対応の特徴を概観した後、「集団主義」と「勝利至上主義」のふたつを手がかりに検討を進めよう。

不祥事の収拾とは真逆な日大の対応

会見する日大アメフト部の内田正人・前監督(右)と井上奨コーチ=2018年5月23日、東京都千代田区会見する日大アメフト部の内田正人・前監督(右)と井上奨コーチ=2018年5月23日、東京都千代田区

 今回の「悪質タックル」の問題は、日大アメフト部だけでなく、日本大学全体の印象をも低下させるに至った。

 あるものと他のものとを区別する肯定的な特徴を「ブランド」であるとすれば、ブランドの価値を低下させる事象はすべて「不祥事」となる。その意味で、「反則行為は自らの指示ではなく、選手が指示の内容を誤解した」と説明した日本大学アメリカンフットボール部前監督の内田正人氏や前コーチの井上奨氏、さらにその他の関係者の対応はまごうことなき不祥事といえる。

 最大の問題は、対応策の逐次投入にある。歴史をひもとけば、かつて太平洋戦争において屈指の激戦であったガダルカナル島の戦いで、旧日本陸軍が中規模の戦力を3回に分けて投入したことによって、兵力と物量の点で優勢であった米国軍の前に敗れ去ったことが示すように、対応策の逐次投入は困難な状況を好転させるための有効な手段ではないどころか、状況を悪化させる場合が少なくない。

 今回のケースでも、日大アメフト部の監督やコーチ、教学部門の責任者である学長が次々と記者会見を行ったものの、日大の設置者である学校法人・日本大学の経営の長である理事長はいまだに公式の声明を出さないなど、対応策が小出しにされている。それによって、人びとを満足させるどころか、「何かより重大な秘密が隠されているのではないか」「本来登場すべき人物が現れないのは、何らかの問題があるからではないか」という推測に信憑(しんぴょう)性を与え、事態の収束をかえって遠のかせている。

「集団主義」は日本人の特徴?

 日本人の傾向や日本文化の特徴を研究する「日本人論」や「日本文化論」の分野では、長らく「日本人は集団主義的だ」と考えられてきた。「個人主義の欧米人」と対照的な「集団主義」こそが、日本人を特徴付ける基本的な要素というわけだ。

 そうだろうか?

 1908(明治41)年に『国民性十論』を刊行、古典文学などからの知見をもとに日本人の特性を10点に集約した国文学者の芳賀矢一は、日本人の特性として「忠君愛国」、「祖先を崇び、家名を重んず」、「現世的、実際的」などを挙げる一方、「集団主義」に類する事項を例示してはいない。

 これに対し、ジョン・エンブリーのSuye Mura: A Japanese Village (1939年)を嚆矢(こうし)とする西洋人、とりわけ米国の文化人類学者や民族学者による日本研究では、「日本では『イエ』が忠誠心と自己犠牲を個々の構成員に求め、個人的な欲求は抑圧される。日本には米国的な個人主義が入り込む余地がない」という、「集団主義」が強調されてきた。

 1960年代に高度経済成長の時代を迎えた日本が、1968(昭和43)年に西ドイツを抜いて世界第2位の経済大国となると、米英の研究者を中心に日本の経済成長の原動力を探る試みがなされ、企業を疑似的な「イエ」とみなし、年功序列、終身雇用、福利厚生などを特徴とする「日本的経営」と「経営家族主義」こそが日本企業の躍進の秘密であるとする見解が示されるようにさえなった。

「イエ」の特徴がうんだの

 ミシガン大学日本研究センターのリチャード・ビアズレーらが岡山県の新池集落を調査した結果をまとめたVillage Japan (1959年)は、家族集団としての「イエ」について以下のような特徴を挙げている。

(1) 「イエ」の世帯は集落の基本的社会単位である。
(2) 集落内外の活動は単独または複数の世帯を単位として行われる。
(3) 日本人の人間観は家(house)の一員としての役割から離れることはない。
(4) 「イエ」(ie)は構成員の個人的な特質や特徴を超えており、一人ひとりの構成員に重くのしかかる。
(5) 「イエ」の連帯は個々の構成員に忠誠心と自己犠牲を求め、個人的な欲求は抑圧される。
(6) 日本には米国的な個人主義が入り込む余地がない。

 日大アメフト部を一つの「イエ」とみなせば、ビアズレーらが指摘した「構成員の個人的な特質や特徴を超えており、一人ひとりの構成員に重くのしかかる」、「個々の構成員に忠誠心と自己犠牲を求め、個人的な欲求は抑圧される」という特徴は、今回の反則タックルとつながると見えなくもない。

 仮に監督やコーチから「相手を潰せ」という指示が出されたとしても、そのような指示に従うことは妥当ではないのだから、断るべきだと部外者は思うだろう。あるいは、選手が指示に従わなかったり、背いたりするべきだと考えるかもしれない。だが、実際には、日大の選手は監督やコーチの指示に従うかたちで、関西学院大学の選手に背後から飛びかかっている。

 アメフト部という疑似的な「イエ」の構成員である選手の一人ひとりに、指導者の指示や命令が重くのしかかっていて、たとえ反則と分かっていても、自らが属する集団に対する忠誠心と自己犠牲の表現として、ボールを持っていない選手の背後から飛びかかった、という「ストーリー」は確かに分かりやすい。

スポーツにとっての「勝利至上主義」とは

日大(赤)と関学大(青)の第51回定期戦は、21―14で関学大が勝利。問題のタックルはこの試合であった=2018年5月6日、東京・アミノバイタルフィールド日大(赤)と関学大(青)の第51回定期戦は、21―14で関学大が勝利。問題のタックルはこの試合であった=2018年5月6日、東京・アミノバイタルフィールド

 今回の反則タックルの背景に、勝利のためには手段を選ばない「ゆがんだ勝利至上主義」があるとする指摘もある。

 そもそも、スポーツにおいて、「勝利至上主義」とは何だろうか?

 所定の規則(ルール)に従うことは、あらゆる競技の前提である。そのため、規則に反する行為を罰することは適切である。故意に規則を犯すことが許されるなら、いかなる競技も適正に進めることが出来なくなる。競技の公平性や妥当性を保つために、選手や指導者の一人ひとりが規則の定めるところに従わねばならないことに、議論の余地はない。

 他方、規則に従いながらも、規則の範囲内で勝利を目指す態度が重要であることも、論をまたない。「出場するだけ」ではなく、「出場してよりよい成績を残す」という「勝利への志向」は、日頃の練習の成果をいかんなく発揮するという点からも有意義といえよう。

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