民法822条の “親の懲戒権” が「体罰」を「しつけ」として正当化させている
2018年06月10日
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東京・目黒区で5歳の女の子が亡くなり、両親が逮捕された事件。彼女がノートにつづった「謝罪」の文面に胸を締め付けられる思いがした。ひらがなを書くように命じられ、決まりごとを守らなかった日は「しつけ」として水を掛けられたり、殴られたりしていたという。
子どもが親に虐待を受けて亡くなる痛ましい事件が後を絶たない。虐待をした親の言い分として最も多いのが「しつけのため」だ。
民法が定める「親権」の中には「懲戒権」というものがある。明治の民法から続いている規定だ。
2011年の民法改正で変更されたが、改正前の条文を読むと、いったいいつの時代のものかとぎょっとする言葉が出てくる。
【改正前】民法822条
1項:親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。
2項:子を懲戒場に入れる期間は、6カ月以下の範囲内で、家庭裁判所が定める。ただし、この期間は、親権を行う者の請求によって、いつでも短縮することができる。
ほんの数年前まで、この条文はこの日本社会で生きていたのだ。民主党政権下の民法改正で、この条文は以下のように変わった。
【改正後】民法822条
親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。
改正前民法にあった「懲戒場」という言葉は消えた。懲戒できる範囲も「監護及び教育に必要な範囲内」に限定された。そのことは、大きな前進だと受け止められてはいる。
しかし、「懲戒」という言葉は残った。親には法律上の「懲戒権」が今もあるのだ。
懲戒権の規定は、親のしつけによる体罰を正当化するものだとして専門家からは削除を求める声が上がっている。法律で子どもへの体罰を明確に禁じるのが世界の潮流だが、日本には懲戒権の規定がある一方、家庭での体罰を禁じる法律はなく、国連のこどもの権利委員会からは「懸念」を示されてきた。
それでも、政府や自民党は民法改正に後ろ向きだ。これだけ児童虐待が増え続け、家庭が崩壊した今の時代、本当に「懲戒権」は必要なのだろうか。
5月、自民党の「虐待等に関する特命委員会」の会合で「懲戒権の削除」が議論になった。国際NGOセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが「民法の懲戒権を削除して、家庭を含む、あらゆる場面での体罰等を法律で禁止するべきだ」と提言したのがきっかけだった。
虐待は、軽い体罰に始まり、しだいに深刻化する。虐待を予防するためには、家庭を含むすべての場面で、体罰等を禁じることが重要だ。法律で禁じることによって、社会全体に「体罰はダメだ」という意識が広がる。そうして虐待を減らしていくのだ――。同NGOの担当者は自民党の会合でこう訴えた。
懲戒権について議論が始まった。一人の男性議員がマイクを持った。
「法律で一律に縛るのは難しいんじゃないでしょうか」。彼はそう切り出し、自分の子育て体験を語り始めた。娘が駅のホームでスマホを見ながら歩いていた時、とっさに一度だけ叩いたという。危険をわからせるためには仕方がなかったのではないか、それも全部ダメなのか、と問いかけた。
女性議員はこう話した。法相経験者だ。「恥ずかしながら懲戒権というものを知らなかったが、これはなくすべきだと私は思う」
5月31日にまとめられた提言(中間報告)には、懲戒権の削除や家庭での体罰の禁止について一言も触れられることはなかった。
2011年の民法改正で「懲戒権」はなぜ残ったのだろう。同年4月の衆院法務委員会で、自民党の馳浩氏と、民主党の江田五月法相がこんな論戦を交わしている。
馳氏「懲戒権を削除するか否かが論点になったが、結局は文言修正を加えて残しました。その立法趣旨は何ですか」
江田法相「懲戒という言葉を口実にして児童虐待をする場合がある。しかし一方で、懲戒という言葉をなくすると、今度はしつけもできないんじゃないかと誤解されるようなこともあるいはでてくるかもしれない。(略)やはり私たちは、懲戒という言葉をあえて取り除くというところまでは踏み込めない」
「懲戒権」という言葉がなくなると、親がしつけをしなくてもよいという誤解が広がる――。この理屈にどれだけの人が納得できるか疑問だ。一連の質疑のなかで江田法相が語った次の言葉に本音が表れているように思える。
「親と子の関係というのは、(略)どれがよくてどれがいけないのかはなかなか言いにくい。しつけのためにちょっとぱちんとやるのがいいんだという親もいる。そういうことを受け入れる子もいる。有形力の行使はいけないんだ、子どもの心に傷をつけるんだ、次の連鎖になっていくんだ、という親もいる。その中ですくすくと育っていく子どももいる。(略)それぞれの親子関係にゆだねるべきことであって、そこに何かの文言を加えてみても、その本質というのは変わらないんだと思っている」
親と子の関係を法律で一律に縛るべきではない、ということなのだろう。
しかし、親権を振りかざす親に対して、行政は介入をためらっているのが現状だ。親がしつけをしていい権利について、もう一度、問い直すべきだ。
児童虐待の専門家は「親権は親の権利のように思われているが、本来は子どもの権利を守るための親の責務だ。2011年の民法改正は前進ではあったが、逆に子どもの利益のために叩くことが正当化されてしまうこともある」と指摘する。
子どものため、ということならば、体罰は許されるのだろうか。法務省の見解は「体罰の定義をどのようにとらえるかによるため、両者の関係を一概に申し上げることは困難」(2017年5月の衆院厚生労働委員会。盛山正仁・法務副大臣答弁)というものだ。
では、どういう場合の体罰ならば「懲戒権」として許されるのかと聞かれ、法務省は国会でこうしたケースを例示した。
「例えば、子が他者に危害を加えたことから、親権者が子に反省を促すべく注意をしようとしたところ、それにもかかわらず、子がこれに応じないで、その場を立ち去ろうとした場合、親権者が子の手をとってこれを引き留め、自身の前に座らせて説教を継続する。こういう場合もありうると思います」
この議論からわかるのは、しつけとしての体罰がどこまで許されるのかについて、明確な線引きなどできない、ということだろう。どこからが「しつけ」で、どこからが「虐待」なのか。その線引きができないから、虐待する親たちの「しつけのため」という言い訳が繰り返されるのではないか。
虐待を減らすため、法的な措置以外にも様々な対策が必要なのは言うまでもない。しかし、「しつけによる体罰はある程度、やむを得ない」という社会の意識が変わらない限り、虐待はなくならない。
最初に紹介した、国際NGOセーブ・ザ・チルドレンの提言の趣旨はそこにある。同NGOは「法改正のない啓発は、大きな成功を収めることができない。法改正と連動した啓発は意識と行動に著しい変化を与えることができる」と法改正の意義を訴えている。
世界で初めて法改正をし、体罰をあらゆる場面で禁じたのがスウェーデンだ。1960年代では、体罰に肯定的な人が6割近くいたのに対して、1979年の法改正後、2000年代には体罰に肯定的な人は1割にまで減ったという。
同NGOが日本でおこなった体罰についての意識調査(2017年7月、20歳以上の男女約2万人へのウェブアンケート)によれば、しつけのために、子どもに体罰をすることに対して、「決してすべきではない」は43.3%にとどまった。一方で、「他に手段がないと思った時のみ」39.3%、「必要に応じて」16.3%、「積極的に」1.2%を合わせると、6割近い人が体罰を容認している。
日本社会の6割がしつけのための体罰を容認する。そして政治家は「親と子の関係はどれがよくてどれがダメが一概に言えない」などと法規制をためらっている。
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