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この国にエリート官僚は必要か?(上)

なぜ官僚はエリートだったのか?なぜ没落しつつあるのか?それでいいのか?

中野雅至 神戸学院大学現代社会学部教授

特技はゴマすり

エリート官僚が働く霞が関一帯と国会議事堂(奥)エリート官僚が働く霞が関一帯と国会議事堂(奥)
   平成2(1990)年に旧労働省に入省して役人の仕事を間近でみて、驚きながらもやがて自身も駆使するようになった仕事テクニックがある。

 それはゴマすりである。特に政治家に対するゴマすり。当初、これは旧労働省だけに特有のことかと疑いもしたが、霞が関の全省庁に共通する普遍的な現象であった。もちろん、役所によって濃淡はあるが……。

 キャリア官僚といえば、傲慢(ごうまん)な学歴エリートで、日本を裏から牛耳るパワーエリート。入省前に思い描いていたそんな姿とはほど遠かった。政治家に対する遠慮など微塵(みじん)もなく、天下国家を語る官僚など見たことはなかった。城山三郎の小説『官僚たち夏』に出てくるような官僚たちは、どこにもいなかった。

 ただ、平成2年当時の役人のゴマすりには、悲壮感がなかった。

 自分たちが進めたい政策がある。その実現のためには政権与党を中心に国会議員の了解を得なければいけない。そのために仕方なくゴマをする。政策立案の主役はあくまで自分たち。ただ、民主主義社会では何事も国会の了解が必要だから仕方ない――。多くの役人の頭の中はこういう整理だったと思う。

余裕が失われたバブル崩壊後

 そんな状況が大きく変化しだしたのがバブル経済崩壊後である。1990年代後半から2000年代にかけて、官僚は自分たちが進める政策を実現するためにゴマをするなんていう余裕は持てなくなった。

 ゴマすりのためのゴマすり。政治家に怒鳴られるのが怖いのでゴマすり。政治家に睨(にら)まれると出世できないのでゴマすり。それがやがて、政治家だけでなく政治家の妻への忖度(そんたく)にまで発展した。

 誇り高き財務官僚が、総理大臣の妻ごときに忖度するはずがない。そんな声が一部にあったが、ふたを開けてみるとそれ以上。決裁文書の改ざんまでやってのけた。行政を歪(ゆが)ませまくった。総理その人ではなく、その妻への忖度ごときで。

 こういう人たちを果たしてエリートとして扱うべきなのか。そもそも官僚はエリートと呼ばれるに値する存在なのか。

 本稿では官僚が今やエリートとしての存在から没落しつつあることを説明したうえで、このまま日本からエリートが消えてしまうことの是非を論じたいと思う。なお、本稿は紙幅の関係から学術論文のように参考文献や引用を随時提示しない。本稿で参考にした文献については拙著『没落するキャリア官僚ーエリート性の研究ー』(明石書店)を参照されたい。

「威信」「権力」「優れた技能」を持つエリート集団

 「エリート」とは何か? ひとまず政治権力に関わろうとする少数集団と定義するとして、それを特徴づけるものは何なのか? 様々な見解が提示されているが、ここではエリートとは、「威信」「権力」「優れた技能」の三つを持ち、使命と理念を中核とする集合意識を持っている集団とする。

 これらを踏まえると、我が国におけるエリートとは誰になるだろうか。政治に大きな影響を及ぼすものとして考えられるのは、「政官財癒着」という言葉に代表されるように、政治家・官僚・財界の三つということになる。最近では、「政官財学情」という言葉からわかるように、大学教授などの学問に従事する人間、情報を扱うマスコミも大きな影響力を持っていると考えられる。

 一方、明治時代以来に絞って見てみても、エリートと呼ばれる者には浮き沈みがある。第2次世界大戦を境にして、軍人の地位が劇的に変化したのは格好の例である。これに対し、我が国において例外的にその流れから逃れているものもある。それは官僚である。明治時代以来、官僚が日本のエリートであることは首尾一貫している。

官僚の強みは優れた技能

 官僚をエリートたらしめた条件を先述した四つの視点からそれぞれ見てみることにしよう。

 まず、戦後の官僚は制度的には権限や権力を持っていない。それにもかかわらず、大きな影響を及ぼすエリートと見なされるのはなぜか? 最大の理由は、官僚が持つ幅の広い優れた技能にある。

 民主主義社会においては、本来、政治が圧倒的に優位にあるはずだ。そこで官僚が政治に対抗しうるような力を持つ最大の要因は、政治家や政党が依存せざるを得ないような優れた技能を、官僚が持っているからに他ならない。

 現代社会において、政府は大きな役割を果たす。そして政府を運営するためには、一定の技能が必要不可欠であり、それを持つ官僚をうまくコントロールできるかどうかが、政治にとって重要になる。いわば、権力と見なしうるほどの技能を持つのが、官僚の強みである。

官僚が持つ三つの専門知識

 では、日本の官僚が持つ優れた技能とは具体的に何なのか。ここでは典型的なものとして専門知識をあげておく。具体的に三つある。

 第一に、各政策分野に関する、アカデミックなものも含めた知識である。日本の官僚機構は縦割りと呼ばれるように、各省ごとに官僚が採用され、その官庁で勤め上げるシステムをとっている。そのため、個々の官僚は、自分が採用された官庁の政策に関する専門知識が誰よりも詳しくなるのが一般的だ。

 第二に、政策形成過程に関する特殊知識である。

 第三に、法律に関する知識であるが、これは主に立法に関する知識と法解釈に関する知識の二つで構成される。

政官業の中心に位置した官僚

 次に、官僚にいかに威信があったかについて、二つ述べる。

 まず、政治・官僚・業界(経済界)のエリートの中でも、中心に位置したのが官僚だということである。

 もちろん、戦後首尾一貫して官僚が圧倒的な中心にいたわけではない。とはいえ、官僚出身の総理大臣が多数出ていること、大企業の社長に就任する官僚出身者が多い一方で、政治家出身の大物官僚(他の先進国では大物政治家出身の全権大使などが存在する)や財界出身の大物官僚など存在しないことを考えると、三者の中心が官僚であったといっていいだろう。

どの世界でも活躍できる万能性

 二つ目は、官僚が政財官のどの世界でも活躍できる万能性をもっていたということだ。

 現役時代は行政組織の一員として大きな影響力を行使するが、官僚を辞めた後も様々な形で権力に影響を及ぼす。宮沢喜一氏(大蔵省出身)以来、官僚出身の総理大臣は出ていないが、国会議員の主なリクルート源が官僚出身者であるのは相変わらずだし、退官して民間企業に転じてから活躍する者も多い。

 さらに言えば、ここ最近は、学術界やマスコミ界に転じて世論に大きな影響を与える者もいる。

 実際、エリートを扱う際、その言葉の前に「統治」「政治」「経済」「学歴」など様々な名称を付けることがあるが、どの言葉をつけたとしても通用するほど、日本の官僚は様々な世界に進出しており、単純に統治の世界だけでエリートと見なされてきたわけではない。

強固な集団性をもたらした四つの理由

 三つ目は集団性の強固さについてである。官僚の他にもエリートと見なされる職業はあるが、官僚ほど集団としての規律が保たれているものはない。「私たちはキャリア官僚である」というプライド意識が強いということであるが、これは何によって培養されたものだろうか。

 第一に、長くエリートとしての地位を維持してきたという伝統に支えられている。学力の優れた者を官僚として選別するシステムは明治時代以降、長期間にわたって続いてきた伝統である。伝統は集団意識を強める上で重要な役割を果たす。

 第二に、試験制度である。大学入試制度はペーパーテストを中心にした公正中立なもので、能力の優劣をつけやすい。国家公務員試験も同様である(もちろん、特定の能力を測っているにすぎないのだが)。そのため、難関試験を突破した者同士ということで一体感を築きやすい。

 第三に、政治任用が限定されていることである。事務次官以下が試験任用者で占められていることによって、個々の官僚には栄達すれば国家や社会に大きな影響力を持つポジションにつけるという意識が芽生える。

 第四に、国家公務員法や人事院規則によって、身分を守られていることである。それだけ、長期にわたって権力の中心にいることができるため、長期的視点から物事を考えるようになり、天下国家とか国家百年の計といった思考を促しやすい。

 こうした四つの要因により、官僚はどこの省庁に所属しているかにかかわりなく、選ばれたエリートという強い集団意識を保持するに至ったと考えられる。

 強固さの背景にある各省の存在

 そうした集団意識がより強く、時には政治家の権力にも対峙(たいじ)するほどの強固さを持つのは、各省を基盤にしているからである。

 官僚の採用から退職までは各省を基盤にしている。そのため、国益よりも省益を考えると言われるほど、各省への帰属意識が強い官僚ができあがった。

 バブル経済の崩壊後に政治主導が強く叫ばれるまで、制度上は大臣や総理などに人事権はあるものの、実質的には官僚の人事は自律的だったことの影響も大きい。誰が出世するかは、あくまで官僚の世界の中で決まるため、政治家を向いて仕事をするより、官僚同士が内向きで仕事をすることになり、集団意識はより強固になった。

 ただ、この程度であれば、各省ベースの強い集団意識は生み出されない。人事をめぐっては近親憎悪的な感情が芽生えるし、集団意識にしても同じ組織に属しているといった程度の仲間意識にとどまるからである。

集団意識をつくった人事慣行と利権システム

 実は各省ベースの集団意識が政治に対峙するくらいに強固になったのは、この二つの要素を基盤にして、個々の官僚が具体的な形で平等に利益を得ることができたからである。それを可能にしたのは、組織内の競争を弱めることなく官僚個々人がある程度は納得できる巧みな人事慣行と、各省セクショナリズムを基盤にした利権システムの存在である。

 具体例をあげてみよう。一つ目は同期横並び昇進と言われるように、一定レベルまでは同期が横並びで昇進することであり、二つ目は「後輩は先輩を追い抜かない」という温情的な昇進レースであり、三つ目は昇進レースに敗れた者は天下りによって保証をするというものである。これを背後から支えたのが各省の利権である。

 これらによって、各省に強い集団意識がもたらされ、昇進レースで不必要な争いを抑えることが可能になった。たとえ昇進レースに敗れても、きちんと保証され、官僚であったという一体感が得られるのであれば、昇進レースに政治や党派的なものを持ち込むという行動が抑止されるだろう。

 実際、ほとんどの官庁では、政治を巻き込んだ大規模な人事抗争など起こっていない。集団意識が低い場合、政治家が人事に介入したり、官僚同士の争いが生じて最終的に中央官庁の力が落ちたりするが、集団意識が高ければこれを防げる。

 このように、官僚はエリートとしての地位に君臨してきたわけだが、バブル経済崩壊後、その地位に激震が走っている。「中」以降、その激震ぶりをリポートしていきたい。

(次回は2日に「公開」予定です)