公共的な徳義民主主義が必要だ
2018年07月19日
麻生太郎財務大臣が「新聞を読まない人は全部自民党(支持)だ」と述べた(6月24日)。この言葉には重い真実が横たわっている。10~30代に自民党の支持者は多い。新聞購読者数は減少し、特にネットだけで部分的な情報を入手する若年層が増えてきているから、この層が政権を支えているということなのだろう。
政府寄りの論調の新聞があるにもかかわらずこの見方が正しいとすれば、政治に関するまとまった情報や論評に日々接していない人々も政府を支持する傾向があるわけだ。これは、前稿「政治の「噓」に対する道徳的不感症が広がっている――民主主義には公共的道義が必要だ」で論じた問題とも関連している。今の日本は政治的モラルが頽廃の淵に沈んでいる。直接には政府の責任であるとはいえ、それを黙認している人々の道徳的鈍化にもこのような事態を招いている一因があるのだ。
かねて投票率の低下が懸念され、政治的無関心の広がりが憂慮されてきた。それでも、いざという時には主権者たる人々は関心を取り戻して支持率の上下という形で政治に影響を与えると想定されてきた。今は西日本の豪雨災害で政府の対応が遅れたと批判を受けているが、どうなるだろうか。
現政権における顕著な傾向は、このような変化が長続きしないということだ。公文書改竄をはじめ様々な深刻な問題を新聞が報じ、一時的に内閣支持率が落ちても、しばらくすると復元する傾向がある。政府は、批判を受けても時間を稼ぎ、スポーツや娯楽、文化的な催しへの関与をアピールする。2016年、リオデジャネイロオリンピック閉会式において安倍首相が任天堂の人気キャラ「マリオ」の衣装で登場したように。
こういったことは歴代首相の通例の行為ではない。そのため、国民の注意を進行中の政治から逸らそうという現政権の意図が疑われているわけだ。実際、しばしばこういった画策はまんまと成功し、支持率は反転して上向くのだ。
ローマ時代に「パンとサーカス」と言われたように、娯楽を政治的に利用するのは専制権力の常套手段である。操られて国民が政治の実体やその重要問題をすぐに忘れてしまい、スポーツや芸能のみに興じるようでは「衆愚政治」と言わざるを得ないだろう。このような統治術の駆使は民主政治にはふさわしくないが、非合法とまでは言えない。むしろ簡単に操作される有権者の側の問題を直視する他ないだろう。その結果は、最終的には国家の失敗として国民自身のもとに返ってくる。
これは古代ギリシャ以来の大問題だ。民主主義はもともと理想的な政治を保証する制度ではなく、独裁という最悪の政治を回避するための工夫だ。それでも、うっかりすると民主主義は堕落して、衆愚政治に陥りやすい。民主主義の発祥の地アテネでは、ペリクレスという優れた政治家が亡くなった後、デマゴーグが跳梁してスパルタとの無謀な戦争に突入し、敗北して民主政治は崩壊していった。20世紀にも、ワイマール共和国という優れた政体のもとでナチスが台頭して、ドイツはファシズムへと陥って第二次世界大戦を引き起こした。
このように、衆愚政は最終的には国家を破滅に追い込む。ギリシャで民衆の人気がある政治家が独裁者(僭主)に移行したように、しばしば民主主義の制度のもとで専制ないし暴政が現れ、戦争を引き起こしたり経済的破綻を引き起こしたりするのだ。
今の日本では、幸い米朝会談によって朝鮮半島で戦争が再開する危険は当面は回避されたものの、これは対話へと鮮やかな舵取りをした韓国大統領と、それに呼応した米朝両政府、さらにそれを支持した中国など関係諸国の尊い努力の賜物だ。日本政府のように圧力だけに固執していては、本当に戦火が上がりかねなかったのだ。
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