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コロナ禍の“このクソ素晴らしき世界”を訴訟で問う~コロナ違憲訴訟三つの意義

自由に対する人々の「痛み」や痛覚を取り戻したい

倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)

 3月22日、飲食チェーン「グローバルダイニング社」(東京)を原告とする、東京都知事による営業時間短縮命令及びその根拠となる新型インフルエンザ対応の改正特別措置法(以下「特措法」という)の違憲・違法を主張する訴訟を原告代理人として、東京地裁に提起した。時短命令をめぐる訴訟は初めてで、世間から注目を集めている。

会見で提訴理由を説明するグローバルダイニングの長谷川耕造社長(中央)ら。右端が筆者=2021年3月22日、東京・霞が関

コロナ特措法違憲訴訟の三つの意義

 “超スピード”で訴訟を準備し、また提起する過程で、私が感じた訴訟の意義は三つ存在する。

 具体的には、①特措法それ自体の法的問題点を炙り出すこと(違憲・違法であること)、②政治的責任とは独立に司法の場での説明責任を課せること、③クラウドファンディングを利用することによる司法と直接民主主義の逆説的な接合――の三点である。

 もちろん、より細分化すれば、意義や論点はよりたくさん存在するし、今後も変化することはありうる。法律実務家特有の感覚として、事件が「生き物」であると感じるゆえんである。

 たとえば、訴訟の準備段階でどの主張にアクセントをつけるのか。いかなる事実に重みをもたせるのか。また、訴訟が裁判所に係属して“ゴング”が鳴った後は、主張立証のタイミングをどうするかは、その事件の“呼吸”や“心拍数”、また癖や不規則性を嗅ぎ取る嗅覚がないと、訴訟をグリップできない。よって、今後さらなる論点についての気づきはあるだろうし、ポイントの優劣も変化するだろう。

 そうしたことを含みながら、とりあえず現在私が感じている生々しい感触や考えを、本稿では記しておきたい。では、上記の三つの意義について、ひとつずつ見ていこう。

訴訟をめぐるミクロとマクロの闘い

 第一に、特措法それ自体の法的問題点についてである。

 この訴訟には、ミクロの闘いのレベルとマクロな闘いのレベルが存在する。ミクロなレベルとは、文字どおり標題にあるように法律論である。すなわち、都知事から今回発出された時短命令及び特措法が、違憲・違法と言えるのかという点だ。

 マクロな視点とは、1年に及ぶコロナ禍で露わになった日本社会の人々の人権感覚や法の支配のあり方、そして民主主義をとりまくプレイヤー(マスメディア)の意識のあまりの薄弱さと脆弱性を問う視点である。とりわけ後者は、戦後、いや、明治の開国以来、ミルフィーユのように層をなし重なり合って岩盤化しているため、本訴訟での問題提起を通じて、「蟻の一穴」をこじ開けたいと考えている。

都知事による命令が「違法」なわけ

 まず、法的論点を整理しておく(詳しくは、「CALL4サイト」に訴状が掲載されているので、そちらでご確認いただきたい)。

 焦点は、小池百合子都知事による命令が特措法上、違法であるかだ。われわれは、特措法で命令を発出するために書かれている「要件」に該当しないのではないか、と主張している。なぜか。

会見する東京都の小池百合子知事=2021年3月18日、東京都新宿区の東京都庁

緊急事態とは言えない状況

 第一に、命令及び要請発出のそもそもの前提たる「新型インフルエンザ等緊急事態」とはいえない状況で、本件命令が発出されたということだ。遅くとも菅義偉総理大臣が緊急事態を終了する旨を公示した3月18日時点において、各種指標によれば「感染の拡大又はまん延により医療の提供に支障が生じている」とはいえない。緊急事態であるという前提を欠くこととなり、本件命令は違法である。

 強調したいのは、これは政府や都自身の基準によれば緊急事態といえないという、「元々あなたたちが設定した基準に従うと違法ではないですか」という点だ。自分たちで設定したゴールポストをずらし続けたツケといえよう。

発出の目的が違法

 第二に、本件命令発出にあたって、

⑴本件対象施設において午後8時以降も営業を継続していることは、飲食につながる人の流れを増大させ、市中の感染リスクを高めていること
⑵原告は、緊急事態措置に応じない旨を強く発信しており、他の飲食店の午後8時以降の営業継続を誘発するおそれがあること
を、本件命令発出の理由とすることへの疑問である。

 そもそも、要請に従わなかった店舗、特に原告対象店舗が、他の約2000の施設と比べて市中感染リスクを特段高めているとはいえないなか、「なぜ原告を特に選択して命令を発出したのか」といえば、もっぱら⑵の理由の原告による「発信」にあるといえる。

 だが、(2)について言えば、「強く」とはいかなる程度で、またどの「発信」であるかも特定されておらず、行政手続法上の理由付記の瑕疵があるといえる(行手法14条)。これが原告の一連のSNS及び会社HPでの発信のことだとすれば、「要請には従わず、命令には従う」という、いたって遵法精神の高い「発信」である。

 こうした発信を理由にして、命令を発出するとすれば、原告としての考えを発信すること自体の重大な制約であって、東京都に対する反論への「みせしめ」的要素が強いことになる。こうした目的・意図でなされた命令は、目的・意図自体が違法性を帯びるし、法の下の平等及び表現の自由の保障の趣旨からしても、違法である。

要請に応じないことに「正当な理由」

 第三に、要請に応じることに、「正当な理由」があるのか、だ。これについては、論点が多岐にわたるので詳しくは訴状に譲るが、まずもって「要請」は、法的にはいかなる意味においても、これに応ずる義務は観念し得ない。よって「要請」に従うか否かに「正当な理由」を求める法律の構造自体が破綻している。

 原告のような規模の飲食店が、現在の一律6万円のような協力金で雇用及び経営を維持することはできない。これらを守るためにやむなく営業をすることには、正当な理由があるといえる。

 さらに今回は、原告が1月7日に要請に従わないことを知りながら、その後に2回行われた緊急事態宣言のもと、想定していない「一般的」な要請を規定しており、施設の使用制限」を予定していない(これは45条2項で初めて可能である)特措法24条9項に基づく「個別の」要請には瑕疵がある。このような執拗かつ法の枠組みを超えた要請には応じない「正当な理由」がある。

 これら「正当な理由」の解釈にあたっては、当然、営業の自由、法の下の平等、表現の自由などの憲法上の人権の価値を読み込んで、一層厳格な解釈を導くべきである。

「特に必要がある」とはいえない

 第四に、特措法は、強制力を伴う措置には「特に」必要があることを求めており、強制力の有無と「特に」必要があるかを連動させている。だが、今回の措置は、本稿で検討してきたとおり、「特に」必要があるときとはいえず、違法である。

特措法45条に基づく命令発出は不可能

 第五に、特措法施行令及び厚労省告示の定めは特措法の委任の範囲を超えており、被告は原告に対して特措法45条3項に基づく命令を発出できない。

 法律は細目を下位規範である政令等に委任できるが、白紙委任はできず、法が予定していた委任しかできない。白紙委任してしまっては、政府の政令で法律を書き換えることが可能になり、立法権を行政たる政府が担うことになるからである。

 本件で特措法45条3項の規定は、「施設」そのものの使用制限を予定している規定であり、「飲食店」という営業の「態様」は想定していない。飲食店を対象にするのであれば、我々の代表である国会による法改正で行うべきものを、政府は何らの議論なく政府だけで可能な施行令&告示で滑り込ませた。法律の委任の範囲を超えた政令に基づく本件命令は違法である(もちろん後述もあわせて、立法権の「横取り」であり、違憲でもある)

コロナ特措法自体の違憲性

 憲法上の論点についても簡単に触れる。

 第一に、特措法自体の違憲性(法令違憲)である。

 企業の営業の自由(憲法22条)には、そこに属する人間の生活が同時に包含されており、営業の自由への強度の制約は、そのまま従業員の生活の自由に直結する。さらに、営業の自由の行使の結果を、人々は利用する。日々食べ、服を着、交通機関に乗り、趣味で心を癒す。これらはすべて誰かの営業の自由の行使を、我々が享受していることに他ならない。

 つまり、営業の自由は、市民社会の「ハブ」における自由なのである。「職業の選択or遂行」という二分論は適切ではなく、営業の自由においても「LRA(less restrictive alternative)」つまり、より制限的でない他の手段があるのであれば、当該自由への規制は違憲であるとの判断をすべきである。

 特措法の解釈において、特措法1条や5条が、その目的として、国民の生命安全という感染症拡大及びまん延の防止だけでなく、国民生活及び経済の営みに対する影響の「必要最小限性」を要求し、等置していることも強調されねばならない。

 この観点からすれば、都は今回の要請を発出する際に9万店舗を目視したそうだが、むしろ、真に感染症対策を徹底させたいのであれば、感染防止対策ガイドラインをより精緻なものにして立入検査等を強化し、遵守を徹底させればよく、一律の時短要請よりも「より権利制限的でない」手段は多数存在する。感染症対策を徹底して営業する店舗数が増えれば、客も分散し「ディスタンス」もとれるだろう。この点で、特措法は過剰規制の疑いがあり違憲である。

 また、都のモニタリング会議の分析によっても、感染経路としての会食は平均5%であり、このことは立法事実の欠如を裏付けている。

命令発出の違憲性

 第二に、本件命令の発出において違憲性があるとの主張について、概要を説明したい。

 政府が自身で解除基準としてた「ステージ」を、クリアしていた中で行われた命令の発出は、緊急事態のラインを下回れば速やかに解除すべしという特措法32条5項の趣旨からしても、営業の自由の侵害として違憲といえる。

 また、上記のとおり、政府は要請に従わない「正当な理由」の判断過程において、原告の「発信」をその一つの判断根拠にしており、これは表現の自由の侵害といいうる。表現の手段方法ではなく内容についての規制は、とりわけ厳格に審査されなければならないが、表現の自由の「萎縮」や政治過程における重要性からしても、政治権力に「適法に」「従わない」旨の「発信」は、特に保護されるべきものである。これを狙い撃ち的に侵害する本件命令は、表現の自由、及び法の下の平等も侵害し、違憲といえるだろう。

法廷では「説明責任」から逃れられない

 次に、今回の訴訟の意義の二つ目である、「政治的責任とは独立に司法の場での説明責任を課せること」について、説明する。

 行政による我々の権利行使の規制・制限については、その規制・制限が正当化されるのかどうかの立証責任を行政側が負っている。

 普段の議会や記者会見ではいくらでもごまかせても、法廷の場では「立証不十分」として最終的な裁定を受けうるのである。しかも、今回の訴訟においては、その最終的裁定が「違憲」との判断もありうるという、抜き差しならない場で、都や政府に説明が求めることが期待できるのだ。

 裁判所において、立証責任を負う都や政府が、これまで実施してきた施策や決定してきた判断が、科学的、法的に本当に必要だったのか、データ等のファクトに基づいて、判断それ自体だけでなく、判断プロセスについても徹底的な公開と説明が求められるのである。

 これまで、人々の権利を制限してきた政治的判断の根拠となった都による「数字」、専門家たちの「判断プロセス」は、果たして妥当といえたのであろうか。

 本訴訟が、今回のコロナ禍におけるまさに「あいまい」な政治的舵取りの是非について、明確な説明責任がを課す場となることには、大きな意義があろう。

時短要請の3カ月ぶりの解除でにぎわいが戻り始めた岐阜市の繁華街「玉宮地区」=2021年3月8日、岐阜市内

クラファンという直接民主主義と司法の接合

 今回の訴訟の三つ目の意義である「クラウドファンディングを利用することによる司法と直接民主主義の逆説的な接合」に話しを移す。

 本件訴訟の特徴は、いわゆるクラウドファンディング(寄付)を利用して訴訟運営をしている点である。

 今回、我々は公共訴訟のためのクラウドファンディングプラットフォームである「CALL4」を利用して訴訟への支援を呼びかけた。

 本訴訟は、訴額を104円(1円×26店舗×4日間)としたことから明らかなとおり、何らかの経済的利益を求めるものではない。本当の目的は、訴訟の意義に記載したとおり、「本訴において特措法自体の違憲・違法を争う中で、コロナ禍における日本社会の空気への違和感を感じるすべての人々、また,声をあげられないすべての人々が心を寄せることのできる場として本訴訟を進めていく」である。

 訴訟の原告には、命令を受けた原告しかなれないが、「自由」や「民主主義」は社会に生きるすべての個人が当事者であり、原告である。そのような「場=プラットフォーム」として、訴訟を機能させることと、クラウドファンディングがもつ性質がぴったりとマッチしたからだ。

 訴訟提起まで極めて短期間であり、見通しも不透明だったので、目標金額を1000万円に設定したものの、支援募集から約24時間で1000万円を優に超えた。それだけ、コロナ禍での施策や自由へのしわ寄せに対する声なき声が存在していたのかと、本訴訟の「場」としての意義を改めて再確認した。(クラウドファンディングのサイトは「こちら」

クラウドファンディングの画面

 我々が手段として利用した「訴訟」は、司法判断の場であり、司法は民主的決定をも最終的に裁定することから、あえて非民主的機関として政治的プロセスから距離をおいて存在する。いくら代表者たちが多数決で決定しても(民主主義)、核心的価値である個人の尊厳が侵されたときは、これを覆す機関として、政治権力からは独立しているのだ(立憲主義)。

 ただ今回我々は、民主主義とは対立しうる司法の場での「訴訟」の枠組みにもかかわらず、クラウドファンディングという「直接民主主制」的なシステムを導入し、訴訟の場をある種の民意の発露として再定位した。そして実際、この「訴訟」の場に、圧倒的なスピードと熱量でクラウドファンディング支援という形で民意が流入したのだ。クラファン立ち上げ4日目にして1500万円を超える支援が集まっており(3月25日時点)、どれだけ政治や市民社会に声なき声の「受け皿」が存在してこなかったかを物語っている。

 拙著『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)でも、現存の腐った選挙代議制民主主義を打開するのは、「立憲主義・法の支配」の再構築と、選挙代議制民主主義とは別の「カウンターデモクラシー」しかないと訴えたが、まさに、今回は「プラットフォームとしての訴訟」という訴訟のもつ多層的な潜在能力を最大限利用して、立憲主義と民主主義の交差点が創出したのではないかという感覚を覚えた。

「自由の侵害」に鈍感になっていないか

 本訴訟を提起した日、原告弁護団で記者会見を行った。記者からは、「違憲訴訟ということですが、それとは別に、今回の実害は何ですか」との質問が飛んだ。

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