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「自発性」はどこへ行ったか?〜やらせメールと「ウォール街を占拠せよ」

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

九州電力のやらせメール問題が最初に報じられたとき、あらまし次のように書いた(本欄「やらせメールの深層心理」、および朝日新聞7月26日付)。「やらせと言っても、子会社など傘下の社員のうち、実際に指令通りのメールを発した数はわずか。従った者、従わなかった者を含めて、自発性もあったのでは」と。

 しかしその後は、あきれるような報道が続いている。九電の幹部や県知事の関与まで取り沙汰され、第三者委員会の報告の扱いを巡って紛糾。さらに原子力安全・保安院までが、九電に留まらず、東北電力や四国電力などにシンポジウムへの動員要請をしていたことが発覚、等々。

 最近になって、八ッ場ダムをめぐる意見公募でも、集まった意見書の96%が同一文書に署名だけ、というニュースがあった(毎日新聞11月26日付)。これも建設推進派の意見書だったようだ。しかし原発と併せて、賛成、反対どちらの陣営がより悪いか、という議論をする気はない。このような仕掛け自体の可否を問いたいわけでもない。ここで問題にしたいのは、「世論は操作するもの、簡単に操作できるもの」という前提のことだ。

 こういう前提が当たり前の国になってしまうまでに、何があったのか。民主主義の大前提であるはずの「自発性」は、どうなっているのか。

 やらせメールをはじめとする一連の問題を「自発性」で読み解こうとするのは、誤解を招きやすい少数意見かも知れない。しかしこのキーワードを念頭に置くと、現代社会・国際社会の多くの現象が違ったふうに見えてくる。

ニューヨークの金融街で抗議活動をする人たち=10月7日

 飛躍するようだが、以下の例はどうだろう。

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