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テロ対策、学界も逃げ腰になるな

米本昌平

米本昌平 東京大学教養学部客員教授(科学史・科学論)

 WHO(世界保健機関)は、ネイチャー誌とサイエンス誌に投稿された、強い毒性の鳥インフルエンザ・ウイルス「H5N1」に関する二つの論文の扱いをめぐって、2月16~17日にジュネーブで専門家会合を開き、科学の面では全面的な公開を認めながら、社会への対応で一定の条件が整うまで、当分の間、公開を見送ることで合意した。

 ことの発端は、昨年暮れ、オランダ・エラスムス医療センターのフーシュ教授と、アメリカ・ウィスコンシン大学の河岡義裕教授(東京大学医科学研究所教授を兼任)がそれぞれ独立に、科学専門誌に、H5N1型の鳥インフルエンザ・ウイルスが、哺乳類にも感染する能力をもつ型を人工的に作成したことを報告する論文を投稿したことが始まりである。ところがこの2論文が受理された後に、アメリカの「生物安全保障のための国家科学諮問委員会(NSABB)」が、両論文についてその一部を削除するよう勧告したのである。

 ここでは「研究の自由」と「安全保障」とのバランスをどうとるかという基本的な問題に加えて、バイオテロ対策に関してアメリカ政府が採用する政策が、世界の研究のあり方をどこまで規定するのかという、その全体像をまず押さえる必要がある。

 話は、アメリカが同時多発テロに襲われた2001年9月、ほぼ同時に、報道機関と上院議員が炭疸菌テロにねらわれ、5人の死者を出した時にまでさかのぼる。この重大事件を境にアメリカ社会では、テロ対策が重要な政治目標にせりあがったのである。これを受けてアメリカ科学アカデミーは、フィンク・マサチューセッツ工科大学教授を座長に調査報告をまとめ、生命科学の進歩と安全保障上の両面から研究をレビューする組織の設置を提案した。こうして生まれたのがNSABBである。

 NSABBは、遺伝子組み換え実験規制をモデルに置き、政府助成を受けている研究について、バイオテロ防止の観点から、NIH(国立保健研究所)などに勧告をする。問題の2論文ともこの政府助成を受けており、この面では、研究の自由に対する不当な介入とは言えず、普通の科学者は考えなかった問題点が指摘されたことも事実である。だが、NSABBのカイム座長が、ネイチャー誌に答えている削除勧告の理由は(Nature,Vol.482,p156,2012)、バイオテロ使用への恐れという視点を拡大解釈したもので、論文公表後に対策とったとしても違いはないものが大半である。

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