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【菅直人氏インタビュー(上)】 東電は全面的に撤退するという話だった

聞き手=竹内敬二、服部尚(ともに朝日新聞編集委員)

 2011年3月11日の東日本大震災による東京電力福島第一原発の事故で、首相として対応に当たった菅直人氏に5月14日、インタビューした。事故では、1~3号機の原子炉で燃料が溶融し、水素爆発も起こった。国際的な事故の尺度では旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)と同レベルだと評価されている。東電は現場から作業員を全員撤退させようとしていたのか。なぜ東電本店に事故対策統合本部を置くことになったのか。菅氏に当時の判断を振り返ってもらった

――民間事故調査委員会の報告書では、東京電力の撤退話について報告を受けたのは3月11日午前3時20分ごろとされていますが。

菅直人 私は事故後1週間は公邸に帰らなかったのですが、このときも官邸の奥で防災服のままで仮眠を取っていました。連絡に来た秘書官から「海江田(万里)経産大臣が、話があるということで来ています」と伝えられた。それを受けて、「わかった」と言ってすぐ起きだして、海江田経産大臣と枝野幸男官房長官(いずれも当時)と話をしました。それから、隣の応接室で、松本龍防災担当相(当時)や3副長官、3補佐官、班目春樹原子力安全委員長や原子力安全・保安院と協議をしました。

衆議院第一議員会館内の菅直人氏事務所で

――海江田さんや枝野さんから、東電が何と言っていると聞きましたか?

 経産大臣から、「東電から撤退の話が来ている、どうしましょうか」という話だった。そばに官房長官もいて、自分の方にも同じような話が来ていると言っていました。「全面撤退」という認識、少なくともそういうニュアンスで彼らはいました。状況が非常に厳しくなっているということはみんな分かっていたし、どんどん水素爆発が起きるのに、次の対策がなかなか打てない。放射線量が上がっていくなど、いろんな状況が悪化していました。

 そういう中で撤退の話が来るということは予測もしていなくて、「そこまで言ってきたの?」という感じはありました。撤退ということについて、条件付きうんぬんなんていうことも全く説明がなかった。全面的に、基本的に撤退するということだったと理解しています。

――言葉は「撤退」ですか? 「放棄」ではなくて。

菅 「撤退」ですね。「放棄」というのは、もうちょっと積極的なニュアンスがありますよね。「撤退」です。

――もうほかに手がないというようなイメージですか?

 まずは経産大臣からの話ですから。生の言葉を私は東電から聞いているわけではありません。経産大臣の言葉であり、場合によっては官房長官という記憶です。お二人は、「撤退というふうに言った」と言われています。

 的確な予測を誰も出してこない。いろんな事象が起きて、水素爆発についても起きないと言われていたことが起きたり、いろんなことが起きた。原発のコントロールができていないという状況はもう嫌というほど分かっていた。そういう中で、どうなるかということを3月11日からずうっと考えていました。ある意味それが仕事ですからね。

 本当なら専門家がもっと、こういう場合はこうなる可能性があるから、それであれば、それに対してどういう手を打つかということになるのですが、それがなかったわけですから、ずっと考えていました。本当に、どこまで行くのかな、と。どんどん行ったとき、どうなるのかな、と。少なくとも福島第一原発だけで6基の原子炉と7つの燃料プールがあって、第2原発には4基あって、4つのプールがある。全部で10基の原発と11のプールで全部事故が進んだら日本は大変なことになると。

 何が何でも止めなければならない、頑張らなければならない状況だということは感じていました。ですから、いくら危険性があっても、撤退して放棄するということはあり得ない。もう危ないのだから仕方ないといった意見は特に出ませんでした。

――菅さんを起こす前に、彼らほかの人たちだけで相談していますね。

 私がいないときの話がこうだった、ああだったというのは、その場では聞いた覚えはありません。そのことは、ずっと後に知っただけで、こういう議論が事前にありましたという話は一切聞いていません。

――それから、清水正孝社長を呼べということになったわけですか。

 内閣のこの問題の中枢メンバーが、撤退なんていうことはあり得ない、とても認められないという意思の一致ができたので、じゃあ、社長を呼んで話をしようということになったわけです。

――社長とのやりとりとして、民間事故調の報告書には、「撤退なんてあり得ませんよ」と社長に言ったと書かれていますが。

 言葉を全部細かくは覚えているわけじゃありませんが、まず私が「撤退なんてあり得ませんよ」と言って、それに対して、「わかりました」と彼が言ったんですね。

――社長に付いて来た東電の人とはお会いになっていない?

 そのときは1人で入ってきたので、だれか付いて来たということは、ずっと後で知りました。普通だったら武黒一郎フェロー(当時)がいるのですが、彼も見ませんでした。流れを見ていると、武黒氏と本店の間のコミュニケーションが、早い段階から非常に不十分というか、よく分からなかった。武黒氏は、少なくとも直前まで副社長で技術担当だったわけですから、一般的に言えば、決して間違った人選ではないと思います。ただ、どうもそこがうまくコミュニケーションが取れてないというのが最初からありました。

 一番分かりやすい例で言えば、東電からベント(排気)を、やりたいと、やらなきゃもたないと言うから、じゃあ、やってくれと言った。けれどもなかなか進まなかった。それで、武黒氏に聞いたわけです。「ベントやったの?」と聞いたら、「いや、まだできていません」と。「なぜできてないの?」と、私だけではなくて、経産大臣なりが聞いても、答えがないわけです。ベントが、本店で止まっているのか、現場で止まっているのか、技術的な理由で止まっているのか、とにかく伝わってこなかった。

――いずれにしろ、武黒さんのところまで情報が来ていなかったわけですね。

 来ていないのか何なのか分かりませんが、来ていなかった可能性はあります。12日の朝、(発電所に)行こうと思った一つの原因はここにあるんです。とにかく、誰からもきちんとした報告が上がってこない、あるいは、その見通しも上がってこない。当然、対策も上がってこない。だから、私としては現場に行こうと。それはやはり今言ったように、武黒氏と東電とのコミュニケーションが極めてうまくいっていなかったことが、ベースにあったわけです。

――15日朝、清水社長を呼んだとき、ほかに誰がいましたか?

 あのときは、あまり大勢はいなかった。聞いていた人が、「わかりました」と、清水社長が言ったのを、何か変だなと。それまであれだけ、何回も何回も電話をかけてきているのに、わたしの目の前では、何も反論しなかったのは変だなということを、だれかが感想を後で漏らしていたかな。

――社長とお会いになったのは民間事故調の報告書によると午前4時17分ごろですが。どれぐらいの時間会いましたか。

菅 そんなに長くありません。最初のやりとりの後に、統合本部の話をして、それで私が出たのが、5時28分ですから、多分それほどではないのではないかな。

――ほかにどんな話をしましたか?

 撤退のことと統合本部のことを考えていました。「逃げる」なんていう

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