メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

「神の粒子」と聞くたびに辟易する

須藤靖

須藤靖 東京大学教授(宇宙物理学)

 2012年7月4日、欧州合同原子核研究機関(CERN)がヒッグス粒子を「ほぼ発見」したと発表した。科学的な意味での慎重さをこの際忘れるならば、99.99998%という確率は常識的には発見以外の何者でもないと言えるレベルだ。歴史に残る科学的大成果である。分野が異なるとはいえ同じ科学者の一人として、この世界的大プロジェクトに参加した方々の喜びと興奮がすぐそこに伝わってくる。日本のグループがその中で大きな役割を果たしていることが一層素晴らしい。

 しかしながら、テレビあるいは新聞などで必ずお約束のように繰り返し登場する「ヒッグス粒子は、神の粒子とも呼ばれる素粒子であり…」という言い回しには、辟易させられる。2011年12月16日の拙稿「ヒッグス粒子の価値と値段」で、科学の本質的な価値とそれを市民に還元する方法の難しさについて書かせて頂いた。今回はこの「神の粒子」という枕詞への違和感をもとに、さらに付け加えて論じてみたい。

 ヒッグス粒子という概念を理解することは極めて困難だ。かくいう私も今から30年ほど前の大学院のころ、少し勉強しただけで、以来全く縁のない生活をしている。深く理解しているなどとは決して口にできない。その難しさは、ヒッグス粒子自体は我々が知っている物質を直接構成する原材料ではないという点にある。物質の組成として不可欠というわけではないのに物理学者がヒッグス粒子の存在を信じて来たのは、この世界を支配する自然法則がもつはずの美しさへの確固とした信念のためである。

 このように言ってしまうと何やらうさん臭さが否めない。にもかかわらずこの種の審美眼あるいは美的感覚は、明らかに基礎物理学研究に大きな影響を与えている。物理法則は基本的にある種の対称性(≒美しさ)をもっているはずだ。しかしそれを信じると素粒子が質量をもつことが禁止される。さあ困った。というわけで、それを巧妙に回避する処方箋が対称性の自発的破れを利用したヒッグス機構であり、それに伴って登場するのがヒッグス粒子である。いわば、法則の対称性は残したままで、真空の性質を少しずらすことで素粒子に質量をもたせるという理論的提案である(やっぱり難しい)。

 このような主張をどこまで真剣に検討すべきなのか。恐らく科学者の中でも、物理学者や数学者以外にはその価値観を共有してもらうことは容易ではなかろう。にもかかわらず、今回のヒッグス粒子の発見はまさにこの信念を裏付ける結果となった。驚くべきことである。

 ここまではなるべく物理学の知識を用いることなく、今回の発見の意味を説明しようと努力したつもりだが、これを読んで、物理学者が感じる嬉しさをわかって頂ける方はほんの一部かもしれない。ファインマンは「数学を知ることなくして、自然界がもつ本当の美しさとは何かを理解することはできない」と述べている(注1) 。残念なことだ。

 だからこそ、この発見の意義を別の方法で世の中の人にわかってもらいたい。そのような思いから生まれたのが「神の粒子」という名前なのかもしれないが、私は2011年11月まで一度も耳にしたことがなかった。ウィキペディアによれば、ある解説書の題名から来ているらしい。しかしその名前で呼ぶ物理学者には未だお目にかかったことがない。

・・・ログインして読む
(残り:約1251文字/本文:約2606文字)