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広井良典、「古事記」と生命を語る〈下〉

広井良典 京都大学こころの未来研究センター教授(公共政策・科学哲学)

 ここで、話を〈上〉冒頭の「天の岩屋戸」神話に戻そう。

 先に述べたように、「天の岩屋戸」神話は太陽神たるアマテラスの死と再生、つまり「太陽の死と再生」を表現する物語と私は理解するが、思えばそのようにアマテラスを岩屋戸への引きこもり、つまり「死」に追いやったのは、ほかでもなく弟スサノオだった。そうすると、アマテラスの「死と再生」の原因となったスサノオとは何を象徴しているのか、あるいはアマテラスとスサノオの対照は何を表現しているのかという疑問が生まれる。

 話が大きく飛躍するのをいとわず続けると、私としては、以下に述べるような現代の生命論における「生命=自己組織性=『混沌からの秩序』形成」という把握が、ここでのアマテラスと重なると考えてみたい。

 この点を明らかにする前提として、近代科学における「生命」観の流れをごく駆け足で概観してみよう。

 「生命」の理解については、近代以降、基本的にいわゆる機械論的な把握がメイン・ストリームとなり、たとえば19世紀におけるドイツの生物学者ハンス・ドリーシュの(新)生気論などに象徴される非機械論的な生命理解は「非正統的」なものとして脇に置かれていった。

 この方向は20世紀半ば以降の分子生物学の興隆によって決定的となり、一層加速していくことになったが、一方では、量子力学で知られるシュレーディンガーが著書『生命とは何か』(1944年)で提起した、エントロピーとの関連で生命を理解しようという議論があり、これらとも関連しつつ、ベルギーの物理学者イリヤ・プリゴジンは非平衡熱力学という分野を開拓し(1977年にノーベル化学賞を受賞)、自然界の物理化学的な現象として「混沌からの秩序」形成がありうることを示した。これは、自然現象は放っておけば(エントロピー増大則のもとで)ただ「無秩序」が増えていくだけとする従来の理解とは異なる自然観ないし世界観であると言える。

 そして、解釈は分かれうるが、これは機械論的な自然観を超えた、いわば「自己形成的な自然」観とも言えるような自然理解につながるものである。実際、プリゴジンが著書『混沌からの秩序』の中で繰り返し論じているのも、そのような自然の理解を行うことで、近代科学の機械論的な枠組みで生じてしまう「人間と自然」の間の分断に何とか橋渡しをしていこうというモチーフだった(プリゴジン、スタンジェール〈1987〉。なお「自己形成的な自然」と各文化圏の「自然」概念については、伊東〈1985〉参照)。

 この場合、以上のような「混沌からの秩序」形成そのものは「生命」現象以前の段階で、物理化学的な現象として生じるわけだが、これがさらに高次化し、「自己複製」という要素まで含むようになるのが「生命」ということになる。こうした議論を以前から展開しているのがカウフマンやバレーラといった論者であるが(カウフマン〈2008〉、マトゥラーナ、バレーラ〈1997〉)、大きく言えばこうした(自己組織化論としての)生命論は、なお「論」としての段階にとどまっており、いわゆる生命科学のメイン・ストリームとしてはなお機械論的な自然理解が中心とも言えるだろう。が、おそらくこうした「自己組織性としての生命」理解や「自己形成的な自然」観は、今後自然科学の領域においても前面に出てくるものと私自身は考えている。

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