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クジラ問題、なぜ「思想」で闘わぬ

尾関章 科学ジャーナリスト

 南極海での日本の調査捕鯨に国際司法裁判所(ICJ)が「ノー」を突きつけた。日本政府内には予想外の結果と受けとめる向きが強かったようだが、そんな楽観論があったことのほうが私には意外だった。朝日新聞の報道によると、政府は裁判に勝つために欧州の法律家や科学者も引き込んで背水の陣を敷いたのは確からしい。ただ、たとえそれが功を奏して一定の言い分が認められたにしても「調査捕鯨OK」の判決が出るとは到底思えなかった。

 なぜならば、それが「科学」の旗を掲げた闘いだったからだ。欧米で過去数十年に強まった反捕鯨運動の高まりは、科学データに立脚したものではない。むしろ思想に根ざしているというべきだろう。ところが日本政府は十年一日のようにクジラを水産資源ととらえ、その資源保護のために必要なことだと言って科学の見地から調査捕鯨をつづけてきた。欧米の捕鯨反対論と日本の捕鯨容認論は土俵が異なり、そもそもかみ合っていないのである。そんな状況では「殺さないと取れないデータもある」と言っても説得力をもたないだろう。

 もちろん、国際捕鯨委員会(IWC)のなかには科学データをもとにした議論がある。だが、それが国際司法の場に引っ張り出されたとたん、もっと幅広い視点から吟味されることになる。その底流にあるのが、いま私が「思想」と呼んでいるものだ。だから、思想に対しては思想をもって争うしかない。こう言うと、イデオロギー論争のようなイメージを思い描く向きもあるかもしれない。だがそれは、思想はすべて信条に凝り固まったものとみる狭量な考え方だ。二つの異なる思想が相対立するとき、論理をもって争えば歩み寄ったり譲り合ったりする可能性はある。もし、日本社会のクジラ食文化を守ろうとするなら、そこに賭けるしかないだろう。

 では、欧米の反捕鯨論の背景には、どんな思想があるのか。そこで無視できないのは、1970年代に台頭したディープ・エコロジーの価値観だ。「人間以外の生命は、人間にとって有用か否かに関係なく、独立した価値を持っている」と考える(『緑の政治ガイドブック』デレク・ウォール著、白井和宏訳、ちくま新書)。まさに「資源保護」とは真逆の立場と言えよう。そこから湧き出てくるものは、ただの動物愛護精神ではない。「動物の権利」(アニマル・ライツ)保護の思想である。反捕鯨の国際環境保護団体がキャンペーンで多用する画像や映像にクジラが血まみれになって解体される様子を撮ったものがあるが、それは人々の感情に訴えているだけではない。尊重されるべき動物の権利が不当に侵された、と告発しているとみるべきなのである。

 エコロジー思想は、欧米では日本社会に比べてはるかに深く浸透している。だからこそ、こうした環境保護派の運動が功を奏して、その支援に資金が集まるのだろう。ただ、それでも「ディープ」な思想の持ち主が多数派かと言えば決してそうではない。なによりも肉食文化が日本よりもずっと深く根を張っている。欧米は欧米なりに矛盾を抱えているのである。

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