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STAP細胞泥仕合が映し出す現代日本社会の醜さ~小学校の学級会レベルの理化学研究所

佐藤匠徳 生命科学者、ERATO佐藤ライブ予測制御プロジェクト研究総括

 STAP細胞騒動が暴いた現代日本の問題点のうち、「かくれ小保方」問題を前稿で論じた。本稿では、「固いが頑強でない日本の国、社会、組織」について論じる。

記者会見重視の異常な研究評価システム

 筆者は、長年にわたり、米国の国立保健研究所(NIH)の研究費を頂いて研究をおこない、また米国NIHの研究費申請書や研究成果の審査メンバーを務めた。5年前に日本に帰国し、驚いているのは、日本における研究費審査や成果の評価、また大学や研究所の評価が、異常なまでに、新聞、テレビなどのメディアによる報道に大きく影響されているというまぎれもない事実だ。したがって、個人も大学・研究所も、こぞって研究成果をできるだけ多くのメディアに大きく取り上げてもらおうとする。

 筆者の良く知っている米国でも、研究成果を世間に発信するため、また大学・研究所の名声を高めるために、メディアに積極的に働きかける。しかし、それは、一般市民をターゲットにした行為であり、研究費獲得や、それぞれの学術分野の専門家による評価、政府による評価には、こういったメディアによる報道実績は、全く無関係だし影響は皆無だ。

 今回のSTAP細胞の理化学研究所による、メディアを通じての報道は異常であった。筆者は、正直いって、このレベルの研究成果(つまりSTAP細胞の発見)が、各種新聞紙面の一面に取り上げられた事自体、驚いたし、理解出来なかった(この点に関する学術的理由は、また別の機会に発信しようと思っているので、ここでは割愛させていただく)。また、報道の内容は、異常としか言いようのない、理化学研究所による「パフォーマンス」であった。筆者自身、理化学研究所の歴史またこれまでの研究成果に、それまでは最大の敬意をはらっていたのだが、このパフォーマンスを目にしたと同時に、大変失望した。

 今振り返ると、理化学研究所も、研究所の高い評価を得ることに必死であったのだろう。ある意味、日本の「薄っぺらな評価システム」の被害者であったとの捉え方も出来なくはない。筆者の理解するところ、

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