メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

エボラ出血熱で思い起こす野口英世の志

秋山仁 数学者、東京理科大特任副学長

 西アフリカでエボラ出血熱が猛威を振るい続けている。劣悪な環境の中、必死で立ち向かっている国境なき医師団等の保健医療関係者の方々には本当に頭が下がる。過酷な現地の映像を見ていると、今から100年ほど前に、当時致死率70~80%だった黄熱病の解明のため、周囲の制止を振り切ってガーナ・アクラの小さな研究室に赴き、現地での研究生活が2年目に入った51歳の時に自らも感染し、命を落とした野口英世の志の高さと勇気に改めて感動する。

1918年ごろに撮影された野口英世の写真。千円札にはこの写真が使われた。

 野口英世というと、多くの人は千円札の肖像や児童向けの偉人伝で伝えられている、「困難に屈しなかった立志伝中の人物」として知っていよう。しかし、自分が聖人君子として紹介されることに対して野口自身は「自分は、本に書かれているような完全な人間ではない。人間は誰でも完全ではなく、また完全でありたいとも思わない」と語っていたという。

 いわゆる偉人伝としてではない野口英世について書かれた本で、現在私の手元にあるのは、『神が愛した天才科学者たち』(山田大隆著・角川ソフィア文庫)と『明治の人物誌』(星新一著・新潮文庫)の2冊だ。前者は、科学史家の作者が様々な科学者について書いた本で、野口については主に25歳で米国に渡ってから亡くなるまでの猛烈にアクティブな研究者としての姿と彼を取り巻く環境を描いている。後者は、SF作家として人気の高かった星新一が野口英世、伊藤博文、後藤新平、エジソン、新渡戸稲造等の人物について書いた一見異色ともいえる本だ。星新一の父の星一は、英世とは互いに尊敬と信頼で結ばれた友人であった。星一が帰国後実業家として成功した後は、野口の一番の資金的な後援者にもなったので、エピソードややりとりが具体的で、英世の素の姿が感じられてとても面白い。

 25歳で訪米した英世は、1年前に来日した際に通訳を務めたペンシルバニア大のフレクスナー教授を飛び込みで訪ね、半ば強引に、蛇毒の研究の手伝いをした。教授の個人アルバイトとして採用してもらい、数ヵ月後に提出した報告書の確かさと素晴しさが認められ正式な大学助手として採用された後は、教授と共に新設のロックフェラー医学研究所に移った。蛇毒の研究は、危険で地味な作業を丹念に積み重ねていく方法しかなく、当時、蛇毒の研究に従事する人はあまりいなかったそうだ。英世は「麻酔を使うと蛇毒が変質してしまう」と言って、麻酔で蛇を眠らせずに蛇の頭をつかんで蛇毒を採集するという、他の研究者がびっくりするような荒業を7年間も行った。様々な蛇についての蛇毒の中毒作用のメカニズム、血清作製法、解毒に必要な血清療法等の全貌を明らかにした大著「蛇毒」を1909年に出版し、これによって33歳にしてこの分野の第一人者になった。

 蛇毒の次に研究テーマに選んだのが、キリスト教社会の米国では「不道徳病」として放置され、まともな研究が行われていなかった梅毒だ。英世は、当時、原因不明とされていた痴呆病の原因が「血液を伝って脳に移った梅毒スピロヘータである」ことを明らかにすると同時に、繁殖力が非常に弱く培養が困難とされていた梅毒スピロヘータの純粋培養にも成功し、欧州の学会からも高く評価されるようになる。このあたりについて、前出の科学史家・山田大隆氏は「金も名もない自分が何をやれば大成できるかを認識し、蛇毒、梅毒など米国の研究者のやりたがらない分野の研究に絞り猛進、完全理解と集中努力、最後までやり抜く精神力、これが(野口が実践した)成功への王道なのだ」と評している。

 英世は

・・・ログインして読む
(残り:約1451文字/本文:約2915文字)