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ノーベル賞発表後の反応に日本の問題点が出た~「役に立つ、立たない」という議論のナンセンス

佐藤匠徳 生命科学者、ERATO佐藤ライブ予測制御プロジェクト研究総括

 今年のノーベル賞発表が終わった。赤崎勇氏、天野浩氏の2人の日本人(中村修二氏は米国籍)がノーベル物理学賞を受賞した。とても喜ばしいことだ。しかし、Twitterなどのネットや、新聞、テレビなどの報道を見聞きして、「またか」「相変わらずだな」と感じることがいくつかあった。これらには現在の日本社会全体に蔓延する問題点が出たと思われるので、この機会に論じたい。

赤崎勇さんの出身地である鹿児島県の小学校もお祝いムードに包まれた=鹿児島市立大龍小学校

 大きく分けて2つのことを論ずる。先ずは、「役に立つ研究、役に立たない研究の議論のナンセンスさ」について。そして、「日本独特のノーベル賞報道の異様さ」を取り上げる。

熱く続く「役に立つ研究、役に立たない研究」の議論

 今年のノーベル医学生理学賞は「脳内の空間ポジションを認知する神経細胞の発見」に与えられた。つまり、自分が何処にいるのかを認知する脳メカニズムの発見という、われわれ人間を含む動物が備えている生存に必要な根本的なシステムの理解につながるものだ。さらに一般化すると「人間とは?」「生きているということは?」という哲学的問いに通ずる発見のひとつといってもよい。一方、ノーベル物理学賞は「青色発光ダイオードの発明」という、われわれの生活に直接的な影響を及ぼした発明に対する授与だった。また、ノーベル化学賞は「超高解像度の蛍光顕微鏡技術の開発」という、バイオサイエンス、医学など多くの生命科学研究を支える技術発明に対して与えられた。

 これらの受賞を受けて、研究者の間では「役に立つ研究、役に立たない研究」といった議論が熱く延々と続いている。筆者は、こういった議論はナンセンスで不毛だと考える。何故かを説明しよう。

 そもそも、こういう議論をしている研究者たちの視野が狭すぎる。「役に立つ、役に立たない」を「経済的効果のみ」で定義しているからだ。科学者として恥ずべき視野の狭さだ。

 「役に立つ」とは、経済的効果のみではなく、われわれ人間が「人間とはなにか」「生とは何か」といった、哲学的またヒューマニティーに関わる根本的な問題を問い、議論することに役立つという側面もあるのだ。仮に、このようなことを問わなくなれば、文化的生活は消え、秩序は乱れ、欲望のみに支配された世の中が待ち受けていることは自明であり、経済的効果以外の意味で役立つ研究はいくらでもある。今年のノーベル医学生理学賞はそういう意味で「役に立つ研究」だ。

 このような発言をすると、「いやいや、われわれがそう定義しているのではなく、研究費を出す行政機関側が直接的経済効果につながるような研究に優先的にお金を出しているのだ」という研究者もいるであろう。しかし、国の行政機関は公的な機関であり、そういった機関から支給される研究費は国民の税金だ。したがって、血税で研究をするのであれば、国民がパトロンであり、その国民に、研究者自身が、何故自分の研究にお金を出す必要があるのかを説明し説得する必要があるのは当然だ。説明や説得をしない、あるいはできないことを棚に上げて、「研究費を支給する行政機関が直接的な経済的効果が望まれる研究ばかりに巨額の研究費を支給している」と批判するのは、身勝手で幼稚な発言だ。

公的な機関以外のパトロンが少ない日本

 仮にそのような説明や啓蒙活動(あるいはロビー活動)をしたにも関わらず直接的な経済的効果のみを望む国民(あるいは国民の選んだ国の執行部)の風潮があるのだとすれば、公的な機関以外のパトロンを見つけ、そこから研究費を獲得するしかない。

 それが日本では難しいのは事実である。国以外の財団からの研究助成もあるにはあるが、その規模が比較的小さいからだ。米国のハワード・ヒューズ医学研究所(Howard Hughes Medical Institute=HHMI)や他の民間財団にみるレベルの大型研究費は日本には皆無だ。

 また、日本では、アカデミアの研究活動のほとんどが国立大学、理化学研究所といった国の研究機関で行われている。国立大学や国の研究所は国民の税金で運営されている。私立大学も、国からの運営助成金、また国からのさまざまな制約無しには存続できない。したがって、上述したように、その時代の風潮(流行)に多かれ少なかれ影響されざるをえないため、研究テーマの多様性という意味では限定的になる。米国では、大型の寄付金などに支えられた世界一流の民間研究所が数多くある。日本国内にはそういった民間研究所はほとんどない。

 このような国内の研究環境の問題点は根深いもので、なかなか変わるものではない。そういった状況のなかで「独創性に富んだ基礎研究には、暇や遊び心が大切だ。そういった研究はすぐに経済的効果をもたらさないが、長期的にみれば何時どのように実用化に発展するか分からない。なので、もっと長期的また寛大な視野に立って、一見すると役には立ちそうにないが重要な基礎研究をサポートして頂きたい」と叫んだところで、多くの国民また行政機関の方々の理解は得られないであろう。

 「暇や遊び心」は「怠慢」と、「長期的また寛大な視野」は「実用化は半永久的に不可能」と捉えられるのがオチである。こうした主張では、「知的活動とは日々身を削る思いで全てを犠牲にして行うもの」であることも、「9,999の実用化につながらない研究なしには1の実用化につながる研究成果はあり得ない」ことも、まず理解されまい。

大切なのは執念と自信

 ではどうしたらいいのか。それは個々の研究者が自身の研究者人生をもってそれぞれの研究の重要性を実証するしかないと筆者は考える。少なくとも「役に立つ研究、役に立たない研究」といったナンセンスな議論に不毛な時間をこれ以上費やすことは止め、「質の高い研究とはなにか」という前向きな議論に転換すべきだ。その方が、よほど有意義で前向きではないだろうか。

 もし本当に研究者自身が自分の研究テーマは重要で、それを進めることが世の中のためになり、それを遂行する能力が自身にあるという自負があるならば、やり方はいくらでもあると筆者は確信している。そのやり方は、人それぞれで、またその時の状況で違ってくるが、もっとも大切なのは「執念と自信」であろう。

 その実例といっていいのが、今年のノーベル化学賞を受賞したEric Betzig(エリック・ベッチグ)である。

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