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「ゴジラ」と「GODZILLA」に見る核兵器観の日米の溝

鈴木達治郎 長崎大学 核兵器廃絶研究センター(RECNA)副センター長・教授

 少し時期が過ぎてしまったが、11月3日はあの怪獣「ゴジラ」の誕生日(最初の映画公開日)だそうだ。誕生60年の節目の年ということで各地で催しものがあったようだが、今年はハリウッド製「GODZILLA」も前作の不人気を吹き飛ばしての大ヒットだったと聞く。そこで、60周年を記念して、この2本の作品を見比べてみた。

 まずオリジナルの「ゴジラ」。改めて60年前に作られたことに驚嘆するほどのよい出来である。第五福竜丸事件の被害を想起させるイントロから始まり、怪獣が核実験によって誕生したことがやがて明らかになっていく。この事実を隠そうとする国会や政府の議論が現代にも通じて大変興味深い。ゴジラの上陸コースがまた東京大空襲のコースを想起させていたのも感慨を覚える。

 さらに興味深いのが、ゴジラを退治するために駆り出される新兵器「オキシジン・デストロイヤー」とそれを発明した科学者・芹沢の苦悩である。芹沢はこの新兵器の破壊力を熟知しているがゆえに、その公開と利用を頑なに拒む。しかし、最後は地球を救うためにその知識とともに自らが犠牲になってゴジラを退治する戦いに挑むのである。

 この芹沢の苦悩こそ、巨大兵器に立ち向かうために新たな兵器をつくらねばならない矛盾、そしてその開発にあたる科学者の社会的責任の重さを描いており、まさに現代の核問題にも通じる「ゴジラ」の大きな主題だったのではないだろうか。

 それでは「GODZILLA」はどうか。

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