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日本の「博士」はこれでいいのか?

不正な学位論文がそのまま合格してしまう現状にひそむ五つの問題点

佐藤匠徳 生命科学者、ERATO佐藤ライブ予測制御プロジェクト研究総括

 日本では不正な学位論文が非常に多いことを「目に余る日本の学位論文の不正」で説明した。これらは審査の過程で見つけられ、学位論文の書き直し・再提出が命ぜられるはず(べき)なのだが、意外と多くの学位論文が審査網をすり抜け、見事に(?)そのまま合格してしまう。このことこそが、日本の大学の大問題だと思う。いや、日本にとっての大問題というべきだ。

 なぜ、世界基準では学位論文のレベルに達していない論文がそのまま合格してしまうのか?筆者の経験はすべて理系、そして主に生命科学系の学位論文審査に限られることを断ったうえで、その経験から抽出された原因となる五つの問題点を以下に指摘する。

学生だから、という甘え

学位記の授与=2014年3月、岡山大学(本文とは直接関係ありません)
 ひとつは、大学の教員と学生の双方に、「学生だから」という「甘え」がはびこっている点だ。日本では、大学や大学院の学生は成人式を終えているにも関わらず、「社会人ではない成人」という「特別枠」に入れられている。

 その証拠に「まぁ、学生だから」という発言を教員側から頻繁に耳にする。学位論文の不正に対し「無知である学生は仕方がない、それを教育し正すべき立場にある教員の責任」という論理がまかり通るのである。

 幼稚園あるいは小中高の生徒ならともかく、成人式を終えた後もそんな「特権」が与えられている。学生もそれを良いことに、不正への責任の自覚がほとんどない者が多い。周囲(例えば大学教員、そして学生の親)も、それが当たり前かのように容認している場合が多い。

教員ひとりあたりの学生が多すぎる

 もうひとつの問題点は、教員ひとりあたりの担当学生数が異常に多い点だ。

 筆者が昨年まで在籍した

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