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[1]科学がショーになる時代

津田一郎 中垣俊之 石村源生 鳥嶋七実 尾関章

 科学とメディアの関係は2011年の3・11原発事故で揺らぎ、さらに2014年のSTAP騒動で混迷の度を深めた。その結果、科学ジャーナリズムのあり方だけでなく、科学者の情報発信がどうあるべきかについても、いま問い直されている。科学者と科学コミュニケーションの専門家、メディア人が徹底討論する。

《発言者》
津田一郎(複雑系科学)
中垣俊之(物理エソロジー)
石村源生(科学技術コミュニケーション)
鳥嶋七実(編集者、新書編集部在籍)
尾関章(科学ジャーナリスト)
☆津田、中垣は北海道大学電子科学研究所教授、尾関は同客員教授、石村は北海道大学CoSTEP准教授(敬称略)。
☆2014年12月に北大構内で討論、今年に入って、採録原稿をもとに発言者が加筆修正した。
☆写真はいずれも、大津珠子・北海道大学CoSTEP特任准教授が討論冒頭に撮影した。

尾関 この1年、あんなことがあったねという話から。津田さんからお願いできますか。

津田 やっぱりSTAP細胞。

尾関 やっぱり。

私の研究者像が間違ってる?

津田一郎さん津田一郎さん
津田 これはちょっと、いろんな意味で気にはなって。

 STAP細胞それ自体は、僕は専門じゃないんで、専門家のようなことはわからないんですけども、基本的に環境要因によって、そういう分化にかかわることが起こるというのは、理論的と言っていいか論理的と言っていいかわかりませんけども、あっていいとは思っていたんです。

 数理モデルをつくる人もいて、細胞分化のモデルをつくってシミュレーションなんかをやっていて、かなりいい数理モデルをつくっている。そういう結果を見ても、単に遺伝子だけじゃなくて、やっぱり環境からのストレスが変数になるというか、そういうシステムはあると、われわれは思っている。

 そうするとですね、環境がシステムへ制約条件を与えている。そういう条件があったときに、遺伝子がうまく発現して分化していく。そういう観点からすると、なんかそういうのはあってもいいというふうに思っていたので、発表があったときに、うわぁ、これはすごいな。やっぱりついにあったかと言って大喜びしていたんです。

 ところが、発表を聞いていると、僕が思っている研究者像とはもうまったく違う人だったので、私の研究者像が間違っている、あるいは古いと思って、これはほんとだったら、もうそろそろ研究者をやめなきゃいけない。時代が変わったなと思ったぐらいだったんですね。

 だけど、違和感がすごくあった。素人というか研究者じゃない人が話してるなというのが。

 それとプロのはずの先生も、iPSよりもずっと収率がいいということを言われた。これは常識的に考えて、iPSより悪いはずなので――というのは、iPSは遺伝子をいじってますから――それがiPSよりいいんだっていうことをおっしゃったので、なんかちょっと僕の直感と違うなという思いがして、それでなんか違和感があった。

 あっていいはずだと思ってて、あったと言われたので、ああ、やっぱりあったなという思いと、自分の中で厳しい戦いが一時ありました。

尾関 中垣さん、どうですか。

オマケにもならないところに焦点

中垣俊之さん中垣俊之さん
中垣 はい、そうですね。STAP細胞にはやっぱりなにか言わなければいけないと思います。

 記者発表を見たのですが、まず着てるものがすごくきれいで、髪の毛もすごくきれいにしていて、そこにまずビックリというか、ああ、なんか来たか、ついにっていう、そういう感じがありました。

 ある主婦の方に感想を聞いたところ、こういうおしゃれのことも大事に思ってやっているような人が、こういういい仕事をするっていうことが、普通の人にとってはとても意味があるということを言いました。

 元同僚だった女性科学者はプロなので、もうちょっとシビアに見てて、かえって着てるものが行き過ぎているというようなことを言ってですね。ちょっとあれはいかがなものかっていうようなことを言ってました。

 でも、嘘だなんて思うわけもなかったので、僕は「ああ」と思って。最近、若い人の発表でも、かっこいい感じの方を目にするので、ああ、だんだんそういうふうになっているというトレンドは感じてて。で、ついに決定打が出たという印象でした。

 ただ、マスコミがそういうことをことさら、クローズアップしているのはどうなんだろうかと。そこは、科学者としての評価基準としてはオマケにもならないところですから。どういうことをやったかというところにスポットを当てているようで、実はあんまり当たっていないという感じがしました、ええ。

尾関 なるほど。違うほうばっかりが目立っちゃったということですね。

中垣 そうですね。ええ。

尾関 鳥嶋さん、どうですか? やっぱりSTAP?

鳥嶋七実さん鳥嶋七実さん
鳥嶋 そうですね、やっぱりSTAPですよね。私も後々、STAP細胞絡みの新書、その騒動を受けて生命科学分野の研究不正をめぐる新書をつくることになりました。でも、あのニュースがあったときは、ツイッター経由でもすでにニュースが流れていて、もうネット空間が何ていうか、みんなフィーバーみたいな状態でした。

尾関 新聞に出る前日の夜から、ニュースでやってたんですよね。

出社すると、もう本にする話

鳥嶋 ああ、そうです。前日の夜ですね。

 30歳、女性研究者、iPS細胞を追い抜いた。

 もう何ていうか、今までの科学者のイメージを覆す属性がそういうふうに揃っているから、これはきっとメディアもすごいことになるだろうなという予感はしていて。で、翌朝、会社に行ったらですね、その時点で、もう小保方さんに本を書いてもらわなければならない(笑)。ほかの会社を抜かなければいけないという、編集部はそんな雰囲気でした。

 みんなテレビのニュースを見ながら沸き立っていて。で、とにかく手紙を書くか、いや、理研の知り合いがいるとか、いやいや、このルートから接触できるんじゃないかと、小保方さんをいかにつかまえるかという話で盛り上がっている。いやぁ、一夜にして、この状況はすごいなという感じはしていたんですけれども。

 でも、自分はどうだったかっていうと、もう少し冷静に見ていて、やっぱり同じ女性だからというのもあるかもしれないですけど、iPS細胞級の研究成果というインパクトはもちろんあったにしても女性という属性が大きくクローズアップされていて、そこにそんなに飛びつく感じに、ちょっと若干違和感を覚えていた。あと、研究室の様子って結構早いうちに映されていましたよね。で、あのピンクの研究室は……。

尾関 どう思いました?

鳥嶋 それには違和感はありました。でも、30歳でユニットリーダー。そうか、日本でも、科学の世界では、能力主義的なところで引っ張られて、そういうふうに活躍できる環境になっているのかな、リケジョという言葉はあったにしても全然知らなかったなっていう印象が第一でしたね。

 そのあと、新聞もなんとなく週刊誌のような報道合戦になっていて、たぶんその中でも 毎日新聞の報道は結構科学的にしっかりと報告してるような印象で、そこでコメントされている一人の人にちょっと声をかけて、後に本を書いてもらうという流れになったんですけど。

尾関 それ、当日の報道で?

鳥嶋 当日ではないですね。

 本をつくるとなったら、もっとスパンが長いというか、少しフィーバーが収まった状態で見たほうがいいなと思っていたので、もう少しあとの段階でしたね。

尾関 石村さんはどうですか? やっぱりSTAPかな。

セルフプロモーションは悪くない

石村源生さん石村源生さん
石村 そうですね。この流れで来ると、この流れを断ち切らないという、なんか使命感が出てきているんですけども。

 実は私、今年度の前半に大学院生向けの授業を担当していて、そのタイトルが大学院生のためのセルフプロモーションだったんですね。私はそのなかで、いかに研究者としてセルフプロモーションが大切かということを言おうと思っていました。要するに、自分の研究成果を臆せず、積極的に外に出して発信していくということが重要だと。

 それによって自分の研究者としての評価というものを獲得していくことも必要であるというようなことを話そうと思って、スライドを準備していたちょうどそのときに、このSTAP細胞がどうやら怪しいという話が耳に飛び込んできて。

 それと同時に彼女がやっていた、まさにセルフプロモーションが180度風向きが変わって、バッシングというか、ああいう演出を記者会見のときにしたのは非常にまずかったとか、広報に問題があったとか、そういったかたちで、セルフプロモーションする研究者自体がよろしくないみたいな論調になってきた。

 で、そのなかで私は、セルフプロモーションを勧めるような授業をどうやってやろうかというようなことで、ちょっと頭を抱えたというのがまず最初にありましたね。

尾関 それが聞きたいとこなんですよね。

石村 それとの関係で言うと、今回は理研の広報に重大な問題があったというように結論づける方がそれなりにいらっしゃってですね。で、現実問題として、いま理研CDBの広報セクションは取り潰しになって、そこに所属していた方は、ほかの部署、ほかの研究所等々に移されることになったわけなんですけども、どうもその話の決着のされ方が、セルフプロモーションが悪いとか、広報が悪いとか、30代女性で未熟なのに云々かんぬん、というような方向で矛先を納めようというふうになっているような気がして、そこにはかなり違和感を覚えていました。

 基本的には、あれは研究不正の問題です。その問題と、広報とかプロモーションとかいうものを研究者はどのようにすべきか、あるいは研究組織はどのようにすべきかっていうこととは、本来別の問題のはずなんで、そこは分けて考えないとアンフェアじゃないかなと、いま思っています。

素人っぽい懐疑論もあってよい

尾関章さん尾関章さん
尾関 僕自身のことをちょっと言わせていただくと、妻に叩き起こされたというところから始まっているんですね。1面トップで、まあ大変じゃない、すごいわねっていう感じでした。ですが、僕はあの新聞を見たときに空疎感を抱いたんですね。

 朝日新聞の見出しは「刺激だけで新万能細胞」というものでした。「刺激だけで」の5文字に「えー?」って思っちゃったんですね。なんか脱力しちゃったんです。  たぶんこれ、iPSだったら「遺伝子で新万能細胞」なんですよね。そういうことだったら、胸にストンと落ちたと思う。だけど、「刺激だけで」。

 で、読んでいったら、その刺激は、紅茶程度の酸性液に25分間とある。それで「えー?」。だって、酸性雨に25分ぐらい浴びたこともあるし(笑)。あとでBBCの記事を見ると、英国の科学者が言っていることのなかに、なぜビネガー(酢)を口にしたときにこの現象が起こらないのかという問題の解明が課題だねというのがあった。

中垣 酸性になって(笑)。

尾関 だから、そのときはすごく空疎感があったということですね。

 ただ、これは津田さんのお話だけじゃなくて、発生学を学んだ人なんかに聞くと、いや、刺激だけであるんだって言うんですよ。

 今のポストゲノム時代の生物学で言うと、エピジェネティクスという考え方が出てきていて、DNAの外側を修飾している部分は、なにかの刺激でもって一挙にバァーッと消えちゃったりすることだって、ありうるんだっていう。

 だから理論的に言うと、やっぱり「STAP細胞はあり《え》ます」なんですよね。

 ただ、科学メディアの人間として大いに反省しなきゃいけないと思うのは、僕が感じた素人っぽい「えー?」っていう感想も含め、もうちょっと懐疑的な見方をきちんと第一報のときから書けるような底力が必要だったんじゃないのかということですね。

 だから、僕は『Journalism』という雑誌に「3・11」に続く「1・30」の衝撃というようなことを書いたんですけど、2014年の1月30日っていうのは、科学ジャーナリズムにとって反省すべき日だと。そのことについては、後段でいろいろ話していきたいと思ってます。

 さて、ほかになにか、この1年で気になったことはないですか? ノーベル賞報道での天野さんブレークなんか石村さんはどう感じられましたか?

石村 ウーン。難しいですね。これはむしろ天野さん側の要因というよりは、メディア側の意図というか。ストーリーテリングをどういうふうに展開していくかというほうの問題だと思うので、それをちょっと私が想像して代弁するのは難しいかなと。

尾関 津田さん、天野ブレークはどうです?

天野ブレークは意外性目当てか

津田 いや、やっぱり、ちょっとマスコミのほうが何に浮かれているのかがよくわからないというところがあって。それで考えてみると、石村さんがストーリーテリングって言われたけれども、やっぱりなんか人間物語をつくりたくてしょうがないところがあるんじゃないかと。

 だから、意外性が楽しい。つまりノーベル賞というのは科学界で最高の権威で、受賞者はだいたいいかめしい顔をしていて取っ付きにくくて難しいことしか言わないのに、なんかやさしい顔して、いつもニコニコしていて、非常にいい人である。本来、いい人でないはずの科学者が、しかも大発見なんかをするような人が極めていい人である。あんなにいい人なのはなんでだろうという好奇心だけで取材してるような気がします。

 今まで日本人、何人もノーベル賞を貰っていてノーベル賞を取材する機会も多かったはずなんですね。ノーベル賞に関して、もっと勉強しなきゃいけないですね。

 ちょっと話、飛ぶかもしれないけれど、ノーベル賞のメダルの話も実はある番組でやっていて、今さら何を言うんだろうと僕は思った。

 メダルの裏を見ると、神が二人いて、女神のヴェールをもう一人の神が開けているわけですね。それが科学者の行為であると。つまり自然を暴く。だけど、そんなのは昔からわかっていて。で、ノーベル賞のメダルを見たことがないってマスコミは言ってるんですけど、そんなのは今、ネットを見りゃいくらでも載ってるし、そもそも日本で非常に早い時期に貰われた朝永振一郎さんなんか、そのノーベル賞のメダルに関して、ちゃんとエッセーイを書いておられるんです。

 彼は物理学というのは極めて乱暴であると。ノーベル賞のメダルに象徴されるように、自然の女神のヴェールを引っぱがすような、そんな失礼なことばっかりやってきたと。これからの科学はそういう失礼なことのないようにしなきゃいけない。だからヴェールなんかめくらなくても、ちゃんと真実がわかるような科学をやるべきだと言って、当時としては地球物理学を例に出しておられました。これは今の物理学から言うと科学に見えないかもしれないが、こういうのが本当の科学であるべきだということを、おっしゃっていて。

 そういうのはもう何十年も前に出ている本なんだから、マスコミの人たちはちゃんと読んでノーベル賞に関連するすべてのことを調査して、そのうえで騒ぐなら騒いでほしかった。だけど、なんかどうも科学者に対する固定観念があって、ノーベル賞という賞に対しても固定観念があって、それを打ち破るというか、極めて普通の人のように見える天野先生ご一家がとてもノーベル賞にふさわしくないような雰囲気があるので、これはすばらしいニュースになると。なんかそういうふうな人間物語を一つ、つくろうとした。

尾関 そういう意味じゃ、どうですか? 鳥嶋さんは今回もまた本をつくれって言われたんじゃないですか? 天野本をつくれと。

中村さんのど根性エピソード、心に届く

鳥嶋 つくれとは言われていないんですけれども、気になったのは天野さんよりもむしろ中村修二さん。やっぱり会社の研究室のない状態で、自分の研究室をつくって、ほんとにど根性みたいな感じでいかに研究をしていったかということ、その根性論みたいなところのエピソードが具体的で届きますよね。あとは、日本がイヤで日本を飛び出して、日本にいろいろ思うことがある。その企業との戦いの部分とか、そういう人間物語のほうに多くの人は関心があるだろうという思い込みもある気がします。企画を出すときには、そういうところを強調したほうが、編集会議とかでも、科学者の顔が見えるという意味で、受けやすいということはあると思いますね。でも、それは……。

尾関 フジテレビの「とくダネ!」とか見てると、もう天野さん一色なんだけど、出版的にはそうなんですね。

鳥嶋 ウーン。そうかもしれない。

津田 でも、中村修二さんの話だって……。江崎玲於奈さんがね、同じような感じなんですね、実は。もちろんソニーがイヤだったかどうかは知りません。それは知らないですけども、やはり日本じゃなくてアメリカに渡ったほうが彼にとってよかった。それでアメリカに渡って、やっぱり日本に対しての、また違う思いがたぶんあったと思うんですね。

 江崎さんがノーベル賞を貰ったときに、やはりいろいろと本もたくさん出ました。そういうなかに、かなりヒントは出ていて、日本とアメリカとか、日本のなかで科学をやるにはどれぐらいの覚悟が要るかとか、科学の世界で覚悟しなきゃいけないこととか、それから、そういう世知辛い競争とかそういうものじゃなくて、もっと深い文化のなかから、たまたまある種の発明、発見というのは出てくるというね、その科学の構造みたいなものも全部書かれているわけです。だから、はっきり言って、今さら何を……。

 こういうことを言っちゃいけないかもしれないけれど、新しい人が賞を貰ったんだから新しい物語があるに違いないんだけれども、ノーベル賞になると、ことさら一人で研究室をつくったとか言う。だけど、そんな人、いっぱいいますよ。

 がんばって一人で研究室をつくっている人は、北大のなかにも何人もいて。だけど、たまたまノーベル賞になっていないだけなんです。もしかしたら来年貰うかもしれないような人も、いっぱいいると思うんですね。

 そういうところに光を当てないでね、結果のノーベル賞で人に焦点を当てていくというのは、やっぱり僕はすごい違和感を感じます。

 昔のマスコミのほうがまだ健全で、ちゃんとした本を出してるし、取材の仕方もね、少なくとも僕ら若いころ、彼らがどういうインタビューを受けたかっていうのは知っているわけですね。で、それは質が違います、はっきり言って。

「青」ではなく「白」のノーベル賞

鳥嶋 そうなんです。そうだと思います。

 ある時代の雑誌で行われた対談ってそもそも面白いなと思うんですが、それこそ湯川秀樹と小松左京の和歌から量子力学へと話題が拡がる対談だとか、湯川秀樹と小林秀雄の禅問答のような対談なんて読むと、ものすごく発見なんですね。

 もちろん時代が違うということはあるだろうけれども、一般の読者への、科学者の言葉の浸透度が今よりもっと豊かだったんだろうと思うし、それが普通に届いていたという時代のほうが、日ごろ科学になんらかのかたちで接する回路があったと思うんですけれど、今って、やっぱりきっかけとしては賞が話題になるというかたちがいちばん大きいというか……。

尾関 分量的には決してそうじゃないんですけどね。メディアはノーベル賞というのをもっと勉強しなきゃダメだよということで言うとね、歴史ももちろんそうなんだけど、それだけじゃない。

 ノーベル賞というのは、ネットで公式サイトに入れば、もう非常に充実したプレスリリースが出てるわけですよ。ちょっと高級な解説から、一般向けのポピュラーなものまで。

 今回、僕はノーベル賞物理学賞の3人の受賞に対して、もうちょっと違う書き方があったと思うんですね。まず物理学賞としては極めて異質だということですよ。

 物理学賞はとりわけ、自然界のしくみ、基本的な原理を見つけたものに出すというのが圧倒的に多かった。ときどき、技術に対してもあるんだけれども、その技術というのは、原子レーザー冷却とか、走査型トンネル顕微鏡だとか、自然科学の発展のために寄与する技術なんですよ。ところが、様相が変わったのが2000年のミレニアム授賞のとき。ノーベル賞は少し変わりますよっていうメッセージだったのか、集積回路のキルビーら二人にあげた。あのあたりから、ちょっと様子が変わってくるんですよ。

 その流れで2009年、光ファイバーなどに賞が出るんですね。で今回は、その流れの三つめなんですよ、2000年代に入って。スウェーデンでの発表をネットでリアルタイムで見たんですが、「ユースフルネス(役に立つこと)」という言葉をあれほど使う物理学賞の発表ってこれまではなかったと思う。

 で、一つだけ言うと、今回の賞のすごいのは、ただ役に立つだけでないこと。授賞理由で「効率のよい青色発光ダイオードの発明」と言ったあとに、関係代名詞が付いていて、その青色発光ダイオードは「明るくて省エネ型の白色光源を可能にするところの」となっているわけ。つまりね、青の受賞じゃなくて、白の受賞なんですよ。

 それで、一般向け情報という資料を読むと、地球上には15億人も電力網にアクセスできない人、つまり夜が暗い人たちがいるっていうわけですよ。それは当然、アフリカなどの途上国を指しているんだけど。そういう人たちにローカルな太陽光発電で、明るい電灯をもたらすことができるっていうことを、すごく強調していたんですよ。

 やっぱり、ノーベル賞っていうのも生き物で、北欧の心の表われだというような感じがした。科学だけの問題ではない。朝日新聞の第一報では、編集委員が環境の時代の授賞であることを解説記事で書いていたが、そこに焦点を当てた記事はもっとあってよかった。そういうことをほんとは伝えるべきなのに、天野ファミリーがとてもいいねっていうような……。

 なんか中垣さんもそんなことをおしゃいましたね、きのう。

人間物語、定型に落ちるところが貧しい

中垣 ええ、そう。人物にスポットが当たるというのは、僕は別にそんなに悪いことではないと一方では思うんです。そのこと自体はですね。

 僕も若いときに、昔の科学者の書いたものをよく読んでいたんです。どういうことを考えてやったかとか、日々の生活との向き合い方みたいなものを、吐露してくれるとすごい励みになった。「ああ、同じなんだ」って思ったりしてね。どんな人かというのは、結構みんな知りたがるところではあると思うんですね。

 だから、それはいいんですけども、なんか定型があって、そこへ話が落ちるというところが見ていてちょっと貧しい感じがするんですね。そうですね。はい。(笑)

 だから科学の内容にしても、人物像にしても、レポーターとか記事を書く人がいて。その人のフィルターを通して出てくるんだと僕は思うんですね。だから、そのフィルター以上のものは絶対出てこないと僕は思っているんです、一方で。

尾関 厳しいな。

中垣 ええ。そういうときに、みんなはこういうものを求めているだろうという基準で物事をやり出すというやり方があって、そこが非常に貧しくなる第一歩だと僕は思っているんです。

 たとえば、こんなこと出しても読者はわかるわけないっていうふうに思うこと自体が案外そうじゃなかったりする。ところが、そういう見方を固定化して作業に入っていくというほうが、わりとやりやすいんだと思うんですよね。

 会議なんかでも、編集会議で通りがいいとかですね、教授会でも通りがいい意見というのがやっぱりあって、それがまかり通り過ぎていないかなと。全体でいいものをつくりましょうとか、みんなのことを考えてやらないといけませんねっていうことを言いだすと、必ずそういうことになってくる気が僕はしているんですね。

 そういうときに、ちょっと断絶した感じで、内面の声を聞きつつ僕はこれがいいんだって、むしろ押しつける感じで出してみる。それがしばしば良かったりするということがある。

 でも、良くない場合もよくあるので、そこは難しいんですけど。でも、そういう二つのスタンスをもっているということが、やっぱりとても大事じゃないか。

複数の切り口を重層で伝えられる時代

石村 今、二つのスタンスとおっしゃいましたけど、それ、結構、キーワードだと私は思っていまして。

 実はそのメディアに対して、あらかじめなんていうんですか、非常にステレオタイプなストーリーありきで取材して記事を書くというようなことを批判したとしても、それが変わりうるかっていうと、いやそれは読者が求めているから、これで書くしかないと。別に公的機関でもないわけだから、営利企業なんだから、買ってもらって読んでもらわなければ、あるいは視聴者に見てもらわなければビジネスとして成り立たないということに結局なってしまう面もあると思うんですよ。

 ただ、今、やっぱりインターネットを始めとして、メディアがずいぶん重層化してきているので、同じテーマについて複数の切り口で、同じ新聞社だとか、テレビ局が情報を伝えていくということは十分可能だと思うんですね。

 だから、たとえばノーベル賞受賞者についてとりあげる場合でも、一つは非常に一般市民の方々になじみやすいようなかたちで、人物を中心としたストーリーテリングをおこない、もう一方は、その研究成果というものがどういう位置づけで、どういう意義があるのかということを、また別のレイヤーで発信して、かつ両者の間には相互リンクを張るようなかたちで、彼ら彼女らのライフヒストリーのどの部分が、どのような研究のエポックメイキングな部分に結びついているのかっていうようなことをですね、重層的に伝えるような技術的、テクノロジーの面でのインフラ的な環境は整っていると思うんですね。

 ですから、もちろん営利企業なんで、ビジネスをやんなきゃいけないと。でも、そういった非常に志のある、先鋭的な試みというのをやっていかなきゃいけないということで、それを両立させるための方法を考えていくべきであって、なんかこう、どちらか一方だけに絞るというようなことではない第三の解決方法があるんじゃないかなと思っています。

尾関 古いメディアですけど、新聞というのは、わりとそこが装置としてうまくできていて、本来は天野ファミリーの話であれ、小保方さんの割烹着であれ、これは社会面の話なんですね。

 実際、第一報のとき朝日新聞では、小保方さんのそういった話は社会面に出ていたと思うんです。問題は、社会面のほうはそっちにバァーといってもよいんだけれども、1面とか2面とかで書く記事が、もうちょっとエッジが立っていていいような気がしてしょうがないんですね。そこで、そういう研究成果の位置づけのような話を書けばいいと思う。

 今回の天野さんについて言うとね、編集委員が書いた、省エネ型技術に注目した賞であるというような記事を、もうちょっとプレスリリースを引用しながらでもいいから出していく。それで説得力をもたせるとかね。なんかそういう工夫ですよね。だからどうも、社会面のほうばっかりがこの1年は走っちゃったんじゃないかという感じかな。

石村 その「青ではなくて白」ということと、それから、かつてのノーベル賞から2000年に大転換があったという尾関さんのお話は、結構重要だと思いました。いわゆる科学論の枠組みで捉えると、「モード1の科学」から「モード2の科学」への転換ということをマイケル・ギボンズが言っています。

 これはどういうことかというと、要するに科学、サイエンスの内在的なリサーチ・クエスチョンにしたがって成果を上げていくことが最大限、最優先で評価される時代から、単純には割り切れませんが、相対的に外在的な価値の実現、つまり社会にとっていかに役に立つか、重要であるかっていうことのほうによりウェイトが置かれるようになってきたということです。このような、「社会」というものがその内部に「科学」というものをどう位置づけるか、という考え方の大きな変化に対して、おそらく一般の方々がイメージしている以上にノーベル賞が「寄り添って」、前述のモードの変化と軌を一にして賞のほうも変化してきている、というのは強調するに値する現象だと思います。

中垣 化学賞は結構昔からそうでした。医学生理学賞なんかもかなり前から、そういうふうな……。

尾関 そうですね。医学生理学賞は医療とつながっている。

石村 で、そのことと、先ほどおっしゃられた朝永振一郎のエピソードとはおそらく深く関係していると考えます。つまり、朝永さんの時代は「サイエンスを通して<世界>を語ることができた時代」だったのではないかと思うわけです。一方で現代、つまり「モード2」の時代においては、科学研究がより細分化し、かつ応用面からの分類枠組みによって理解されることにより、科学者コミュニティーの中で朝永さんの時代のような<世界の全体性>にかかわる言説が成立しがたくなってきているのではないでしょうか。

ノーベル賞も変わるべきだ

津田 いや、だから、それに関して僕が言いたいのは、ノーベル賞も変わるべきなんだと思います。変わってきたのはいいんだけど、もっと変わるべき。そもそもノーベル賞の起こりはアルフレッド・ノーベルがダイナマイトの発明によって得た富のほとんどを遺産として残し、毎年の利子をその前年に人類に貢献した人に与えるものなので、貢献に対する評価はもっと多様であってよいと思いますね。

 たとえば、化学と物理学の間だって垣根がなくなりつつある。そういうところで研究がおこなわれているし、医学生理学と化学だってかなり関係あるし、物理学と医学生理学だって、すごく関係があるわけですね。もしかしたら経済学だって、どっかとつながるかもしれない。それなのに、いまだに古い学問体系で賞を決めているということ自体がね、やっぱり僕はノーベル賞の委員会はもっと反省すべきだと思います。

 複合的な分野をじゃあどっちに入れるんだって、いつも揉めるんですけどね。そうじゃなくて、ほんとに複合的な賞というのをノーベル賞は設けるべきだと私は思います。

石村 それは全く同感です。審査は恐らく非常に難しくなるとは思いますが。

津田 そう変わってほしいなと思いますけど。(つづく)