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記憶を消す

脳の操作がここまでできる時代

瀬川茂子 朝日新聞編集委員

 朝日新聞の科学面で「記憶を操作する」という記事を書いた。偽の記憶を作ったり、記憶を消したりするといえば、SFのようだが、動物を使った実験では現実になっている。

  たとえば、東京大学の河西春郎教授らのグループの研究。回転速度をあげても回転車からできるだけ落ちないように訓練をしたマウスは、脳の運動を司る領域に学習の記憶が刻み込まれている。この記憶に対応して変化したのは、神経細胞どうしのつなぎ目の構造「スパイン」だという。スパインが大きくなると、そのつなぎ目を使った情報ネットワークの伝達効率が上がる。この状態が続いている間が、記憶を保持していることにあたる。ところが、大きくなったスパインを小さくすると、ネットワークは訓練前の状態に戻り、回転車から落ちやすくなる。つまり、記憶が消えたというわけだ。

拡大光を当てて神経細胞のスパインを小さくする実験=東京大学河西春郎教授提供

 スパインの大きさが記憶に果たす役割を証明した結果は、とても興味深い。しかし、もっと驚かされたのは、最前線の技術を駆使した実験内容だ。

 どうすれば、1ミクロン以下のスパインを小さくできるのか? グループは、神経細胞の活動で大きくなったスパインだけで働き、しかも光が当たるとスパインを小さくするように働く遺伝子のセットを巧妙に設計した。神経細胞の微細構造の可視化、遺伝子操作、そして光技術を複雑に組み合わせると、脳の操作がここまでできるようになっていることを示した。

 もちろん、ヒトにそのまま使える技術ではないが、この速度で研究が進むとどうなるのだろう。

  いま、記憶研究はどこまできているのか、どこにいこうとしているのか、まとめて聞いておきたいと思い、記憶研究で多数の成果を発表してきた東大名誉教授の宮下保司教授を訪ねた。現在は、記憶研究の百花繚乱時代で、そのうち行き着くところまでいって、再構成が必要になるのかもしれない。その次に新たな問いが出てくるという話が印象的だったので、以下に紹介したい。

宮下保司・東大名誉教授に聞く 記憶研究のいま

 この10年で記憶研究はとても進みました。とくにマウスとサルを使った研究がとても進んでいます。マウスの代表は米マサチューセッツ大学の利根川進教授らのグループです。2012年に英科学誌ネイチャーに発表された論文はエポックメイキングでした。マウスが記憶課題を行っている最中に、活動した神経細胞をラベルしておく。ラベルした神経細胞をオプトジェネティクス(光に反応する特殊なたんぱく質を神経細胞で働かせ、光によって、神経細胞を活性化したり不活化したりする技術)で強制的に活性化すると、記憶していた行動が出るというものです。細胞集団の中に記憶の痕跡をもつ細胞があることをストレートに示しました。

 神経細胞が細胞レベルで記憶を保持しているというコンセプトは前からあり、多くの人がそうだろうと思っていましたが、やはりダイレクトエビデンスをきちっと示したインパクトは大きいと思います。マウスは遺伝学が使える(遺伝子組み換えができる)という利点を最大生かした研究で、その後、人工的にマウスの記憶を書き換えるなどの応用研究が次々と発表されています。利根川さんは「メモリエングラム(記憶痕跡)」の時代だと言っています。

 分子生物学のおかげで、神経細胞やその中で働く遺伝子といったミクロレベルの現象を調べる技術はたいへん進歩しました。しかし、脳はそれだけでは全体像がつかめません。脳には階層構造があります。脳全体は10センチ単位です。複雑な情報処理をする神経細胞が集まっている大脳皮質の厚みは1ミリ。1ミリの中に、 ・・・続きを読む
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筆者

瀬川茂子

瀬川茂子(せがわ・しげこ) 朝日新聞編集委員

1991年朝日新聞社入社。大阪本社科学医療部次長、アエラ編集部副編集長などを務める。共著書に「脳はどこまでわかったか」(朝日選書)、「iPS細胞とはなにか」(講談社ブルーバックス)、「巨大地震の科学と防災」(朝日選書)など。

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