2016年11月02日
本稿のテーマは、前回にも述べたように「無」あるいは「死」であるが、そもそも今という時代において、「無」や「死」についてあらためて論じることに一体どのような意味があるのだろうか。
「無」も「死」も、概念としては自明のことであり、それらについてそれ以上あれこれ論じたり、考えたりする余地はないように見える。
つまり「無」について言えば、それは「何もないこと」であり、それがすべてである。もしかりにそれについて何らかのことを語るとすれば、その瞬間にそれは「有」になり、もはや「無」ではなくなっているだろう。それについて何も語れないのが「無」ではないか。そしてまた、「死」が端的な「無」だとすれば、死についても同様ではないか。
以上のような考えは、現代という時代を生きる日本人のほとんどが“常識的”と考えている物の見方であり、またそれは日本人に限らず、大きく言えば近代社会という時代において自明なもの、あるいは合理的とされてきた思考の枠組みでもある。
言い換えれば、もし「無」や「死」について何らかのことを語りうるとすれば、それはたとえば宗教や神話、民俗的伝承といった、“非合理的”あるいは“前近代的”な話題を扱うような領域のテーマとなるのであって、通常の意味の「科学的」な思考からは離れていく、というのが一般的な了解になっていると思われる。
しかしはたして本当にそうだろうか。
むしろ「無」や「死」というテーマを正面からとらえ、それについて様々な角度から考え、論じることが積極的に求められる時代を私たちは迎えようとしているのはないか。また、「有」や「無」についてのこれまでの常識的な観念や論理それ自体を問いなおし、新たな思考の枠組みの中でこうしたテーマを考え深めていくことが、今こそ求められているのではないか。
本稿の基本にあるのは以上のような問題意識だが、実はこうした関心について、近年、すでに相当な形で議論や研究を積み重ねてきている「科学」の領域がある。
意外なことに、それはある意味で“科学の中の科学”とも呼べる性格をもつ分野たる物理学の領域である。ここで“科学の中の科学”としたのは、17世紀にいわゆる「科学革命Scientific Revolution」と呼ばれる現象がヨーロッパに起こり、現在の私たちが「科学」と呼ぶ営みや世界観が成立した際、その中心をなしたのが(ガリレオやニュートンに象徴されるような)物理学の領域だったことを指してのことだ。
もっとも単純に言えば、たとえば「ビッグバン」など宇宙の創成に関する話題を追求していけば、そこに自ずと“なぜ無から有(宇宙)が生まれたのか”“そもそも無とは何か”というテーマが浮かび上がってくるのはごく当然のこととも言えるだろう。
言い換えれば、「無」あるいは「有と無」というテーマは、この世界、つまり「有」の世界の“内部”における様々な現象や法則について探究してきた近代科学の営みが、その探求の最終局面においてたどり着く、文字通り「究極のテーマ」であるはずだ。
ここで、こうした「無」をめぐる物理学の展開を、一般の読者向けに印象深く描いている一例を紹介してみたい。
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