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危機に直面する科学研究の「再現性」

STAP細胞論文、次世代ゲノム編集技術をめぐって

粥川準二 サイエンスライター

 今、科学の世界では「再現性の危機」と呼ばれる状況がよく話題になる。

 2014年に世間の注目を浴びたSTAP細胞論文では、「研究不正の有無」と「再現性の有無」の両方が問題になり、しばしばその両者が混同されて議論された。最終的には、研究不正はあって、再現性はなかった、という最悪の結果を迎えた。当事者である理化学研究所は、両方の検証を同時並行して行い、再現性の検証(再現実験)結果を先に発表した。しかし筆者も含めて、再現実験では研究不正の有無はわからないので、聞き取り調査などによって研究不正の有無を優先して調査すべきだという意見は少なくなかった。

 現在までに、STAP細胞論文の再現実験をまとめた論文は4本公表され、そのすべてが再現できなかったことを報告している。再現実験というものは、新しい知識を生み出すものではないので、基本的には論文にはなりにくい。それが4本もあるということは、この問題の特異性と同時に、科学者たちが後述する「再現性の危機」を共有していることを反映しているのだろう。

 あらためて確認すると、科学研究における「再現性」は、その研究が科学である条件の1つである。論文に書かれていることと同じ材料(対象)を用意し、論文に書かれている方法で実験を実施することを「再現実験」または「追試」という。この再現実験を行って、論文に書かれているものと同じ結果が出なければ、その研究は科学的な価値がないということになる。

ゲノム編集研究で再現性問題が浮上

 以前、本サイトでも書いたように「ゲノム編集」が注目され続けている。ゲノム編集とは、遺伝情報すべてが書き込まれているDNA、つまりゲノムを、まるで文章や映像を編集するように切り貼りする技術である。「遺伝子編集」という場合もある。今、世界中の科学者たちが新しいゲノム編集技術の開発に取り組んでいる。

 2016年7月、中国の河北省にある河北科技大学の生物学者ハン・チュンユ氏らは、「NgAgo」というタンパク質を使えば哺乳類の遺伝子を効率よく編集することができると、『ネイチャー・バイオテクノロジー』で報告した。ハンらは「アルゴノート」と呼ばれる一群のタンパク質に注目し、その1つNgAgoを使って、ヒトの細胞内の遺伝子8個を編集できたという。現在主流の技術である「CRISPR/Cas9(クリスパー・キャス9)」がときどき間違った遺伝子を編集してしまうのとは異なり、NgAgoは目的の遺伝子のみを特異的に切断することができるとハンらは論文で主張した。

拡大一流の科学専門誌で「再現性の危機」があらわになっている
 この研究結果は、次世代ゲノム編集技術として、中国では広く注目を集めたという。しかしすぐに、多くの科学者たちがハンたちの論文に書かれている実験結果を再現できないと発言し始めた。

 まず、中国では有名な元生化学者でサイエンスライターのファン・シミン氏が、ある科学者が実験結果を再現できなかったということをウェブサイトに書き、ハンの論文には再現性がないと主張した。続いて、オーストラリアの遺伝学者ゲーイン・バーギオ氏が自分のブログに、ハンらの実験を再現しようと試みたが失敗したという経緯を詳しく書いた。どちらもTwitterなどのソーシャルメディアで拡散し、盛んに議論された。また、英国の研究者によるオンライン調査では、97人の研究者が、NgAgoは機能しない、と答えた一方で、わずか9人だけが機能すると答えた。

 11月には、中国で発行されている英文の学術雑誌『プロテイン・アンド・セル』で、20人の共著者らがハンらの実験結果を再現しようとしたが、できなかったという結果を掲載した。ハンらのNgAgo論文を掲載した『ネイチャー・バイオテクノロジー』もまた、その実験結果を再現しようとする試みが3回失敗したという報告を同月に掲載した。

 ハンらは、自分たち以外の研究者が論文の実験結果を再現できない理由を説明する論文を昨年末までに投稿したいと『ネイチャー・ニュース』にコメントしていた。また同誌は、NgAgoが機能することを確認したと匿名で話す科学者が、少数ながらいることも伝えている。

 今年1月9日現在、この問題は決着がついていない。STAP細胞論文では、「研究不正の有無」も問題になったが、ハンらによるNgAgo論文については、今のところ再現性がないことだけが問題にされており、研究不正がある可能性は指摘されていない。この違いには注意する必要がある。「研究不正の有無」と「再現性の有無」はまったく別の問題である。研究不正が再現できないことの原因になる可能性は高いが、再現性がないからといって、研究不正があることが確定されるわけではない。

生物学、医学、そして心理学にも「再現性の危機」

 「再現性の危機」とは、数多くの科学実験の結果が、別の科学者によって、あるいはその実験を行った本人によってさえ再現することが困難であったり不可能であったりすることがわかってきたという状況のことである。

 「再現性の危機」が問題になった契機はいくつかある。たとえば最近では、2012年、当時バイオテクノロジー企業アムジェンにいた研究者たちが、「画期的な」がん生物学の研究論文53本を選んで再現実験を行ってみたところ、わずか6本しか論文に書かれている結果を再現できなかったことを報告し、話題になった。

 再現性という問題は生物学や医学で問題になることが多いが、心理学が議論されたこともある。2015年8月、270人もの研究者からなるチームは、2008年に有力なジャーナル(学術雑誌)で発表された心理学分野の論文100本で報告された研究の再現を試みたところ、同じ結果が得られたのは36パーセントに過ぎなかったと報告した。ただしこの結果には別の心理学者らから反論があった。

多くの科学者が「深刻な危機がある」と回答

 『ネイチャー』は、研究における再現性について、オンラインのアンケート調査を実施し、1576人の研究者から回答が集まった。2016年5月にその結果が公表された。

 それによると、「再現性の危機はありますか?」という質問には、回答者の52パーセントが「はい、深刻な危機があります」と答えている。「はい、わずかな危機があります」と答えた者は38パーセント、「いいえ、危機はありません」と回答した者はわずか3パーセントであった。7パーセントは「わからない」と答えている。あくまでもオンライン調査なので、もともと再現性問題に関心のある科学者が主に回答していると仮定したとしても、かなり多くの科学者たちが「再現性の危機」を感じている傾向がわかる。 ・・・続きを読む
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筆者

粥川準二

粥川準二(かゆかわ・じゅんじ) サイエンスライター

1969年生まれ、愛知県出身。国士舘大学、明治学院大学、日本大学非常勤講師。「ジャーナリスト」や「社会学者」と呼ばれることも。著書『バイオ化する社会』(青土社)など。共訳書『逆襲するテクノロジー』(エドワード・テナー著、山口剛ほか訳、早川書房)など。監修書『曝された生 チェルノブイリ後の生物学的市民』(アドリアナ・ペトリーナ著、森本麻衣子ほか訳、人文書院)。

 

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