メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

日本にもっと「学問としての科学」を!

欠陥教育 に起因する「豆知識オタク」の弊害

佐藤匠徳 生命科学者、ERATO佐藤ライブ予測制御プロジェクト研究総括

 筆者は2012年からWEBRONZA科学・環境ジャンルに寄稿しているのだが、「学問としての科学」を扱った論考はウケが悪い(つまり、アクセス数や注目度が低い)というのを実感している。一方、その時どきに社会で話題になっている事柄に関する「一過的な意見、コメント、話題提供」などの論考は一様にウケが良い。その典型が、「小保方さん」「iPS細胞」「ノーベル賞」「AI」「イノベーション」「グローバル化」などだ。

鏡を使って光を集める実験をする小学生=2016年10月、徳島県鳴門市、長谷川大彦撮影

 科学は、 自然界の成り立ちを論理的に説明し理解する、という知的エクササイズだ。自然界の様々な現象が紀元前から記録され、それらが様々な角度から考察され、論理的な説明がなされてきた。それらの説明に問題点が見つかると、論理的な新たな説明がなされる。こうして科学は発展してきた。つまり、科学は大きな歴史の中に存在する論理的思考の潮流であり、論理というブロックの積み上げによる巨大な建造物だ。

 したがって、「学問としての科学」を理解し、生活の中でエンジョイするには、この科学の歴史を理解し、論理的思考が自然にできる、という前提が必要になる。これは、子供のころからの、教育の現場(そして普段の生活)での地道な訓練に依存する。しかし、残念なことに、日本での一般的な教育は目指している方向がまるっきり違うので、前提が満たされていない。だから多くの日本人には「学問としての科学」がウケないのだ。以下にその原因を列挙し、最後に筆者の提案を示そう。

【科学を歴史の流れの中で教えていない】

 学校の授業では、数学的な技術や科学の知識は教えても、それらの歴史的背景は通常は教えない。足し算、引き算、掛け算、割り算、などは習う。重力や、それをニュートンがどうやって見つけたか(一般的にはリンゴが落ちるのをニュートンさんが見て思いついたと教わる)も教わる。細胞分裂とはなんぞや、という知識も生物の授業で教わる。しかし、数字の起源、重力という概念の発見以前の自然観を踏まえた上での重力の意義 、細胞がどのように発見され、細胞という概念の出現によって自然現象のどういったことが論理的に説明可能になったか、などは学校では通常教えられないし、多くの生徒さんたちは学ばない。

【論理的思考の訓練の欠如】

 これは、昔から言われていることだが、学校では知識の理解度とその知識の活用方法やコマンド力を身につけることに重きが置かれており、論理的な思考能力を身につけることは軽視されている。

【学校の先生方の能力不足】

 学校の多くの先生方は、科学の発見や原理や知識を、科学の歴史の流れというコンテクストで教え、理解させる教授法を持っていない。そもそも、先生方がそのような教育を受けていないのだから、先生方もそのレベルでの科学の理解はない。

【メディア側の問題】

 日本のメディアでは、「科学に関する豆知識」を伝える番組や記事は非常にポピュラーだ。テレビでも、科学の豆知識を視聴者に提供する科学番組は多い。しかし、これらは、「豆知識」でしかなく、科学とは別物だ。科学に関する豆知識がいくら増えても、自然界の科学的理解は全く進まない。それどころが、「学問としての科学」の理解を妨げてしまう。

 それなのに、単なる豆知識を得た視聴者や読者は、自分が科学を少し理解できるようになったと錯覚してしまう。また、これらの科学に関する豆知識を提供する方々が、「科学者」「先生」と紹介されることで、「科学」について誤解してしまう。これらのメディアに登場する方々の多くは、科学者ではなく、「なんちゃって科学者」なのだ。

【大学や研究機関からのプレスリリースの問題】

 メディアの報道だけでなく、研究機関や大学からのプレスリリースまでもが、単なる豆知識の提供や読者や視聴者からの注目を得ることが目的になされてしまっている。ここでも歴史的背景の説明はほぼカットされ、また、わかりやすく説明することにあまりに重きを置き過ぎて、社会へのインパクトが誇張され過ぎる場合が多い。できるだけ「いいね」を多く獲得するために、「世界一」「教科書を書きかえる」「世界初」「常識を覆す」とかいった薄っぺらい文言を散りばめることも当たり前になっている。

 では、「学問としての科学」が国民に浸透するにはどうしたらいいのか。その提案を以下にする。

・・・ログインして読む
(残り:約1235文字/本文:約3018文字)