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失言の心理——なぜ政治家は、言ってしまうのか

偽情報が偽にならない「情報の実体化」の危機がここにも

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

 政治家の失言が相次いでいる。今に始まったことではないが、このところ頻発している。いったいどうなっているのか。

山本幸三地方創生相(左)と今村雅弘復興相
 この4月上旬、今村雅弘復興相は「被災者の自主避難は自己責任」と発言。問いただした記者に「退席しろ」と叫んで問題になった。その3週間後には今度は自分たちの派閥パーティで「震災が東北だから良かった」と発言。その直後は「真意の説明」(言い訳?)に終始したが、翌日には辞任に追い込まれた。

 同じく4月、山本幸三地方創生相は滋賀県で講演。観光振興をめぐり「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目」と発言した。また大英博物館にも言及し「学芸員が抵抗したが全員クビにして大改装を実現し、成功した」と発言。セミナー終了後にも「そういうことが(事実)あった」と主張したが、翌17日には謝罪に追い込まれた。大英博物館の広報担当者も「明らかな事実誤認」と全面的に否定した(ハフィントンポスト日本版、4月20日)。

 さかのぼって昨年9月、務台俊介内閣政務官は台風被害の岩手県視察の際、職員におぶわれて水たまりを渡った。後に自らのパーティで「各省庁で長靴がえらく整備された。長靴業界はだいぶ儲かった」と発言し、この3月に辞任した。

 挙げ出せばきりがないが、共通している点がある。それは初発の失言の後に続きがあったり、「事実は事実」と謝罪を拒否したり、辞任を問われて激昂し火に油を注いでしまったり。要は感情的になって後始末が適切でない。失言が単なる不注意ではなく、深層心理的な背景があるのでは、と疑いたくなる。

 さてこうした経緯を念頭に、失言の心理をどう理解するか。失言に至った心理だけでなく、その後の対応の不備をも説明したい。

「抑圧」モデル

 まず第一の心理モデルはわかりやすい。まず役割上適切でない(=政治的に正しくない)本音が、心の深層にあらかじめある。これが役割意識(=政治正義)によって抑え込まれている。だがちょっと油断するとこの本音が抑え切れず、口を突いて出てしまう。

 発言内容が事実だとしても、もちろん場所と相手によっては控えなくてはならない。先の今村復興相「東北だから良かった」発言も、「東京など大都会であれば、被害ははるかに大きかったはず」という指摘そのものは、間違いではない。また仮に長靴の売り上げが本当に伸びていたとしても、務台氏の失言が免責とはならない。

 つまり事実かどうかではなく、それが「誰にとってはどう聞こえるか」が肝心なのだ。このことからただちに、第二の心理モデルが導かれる。

「聴衆に引きずられる」モデル

 政治家はその本性として、聴衆に受けるように話す。ここにすでに危険が生じている。つまり目の前の聴衆(たとえば自派の政治家や支援者たち)の反応に引きずられ、彼らにはウケても、被害者(という別の社会集団)から見れば許せない放言をしてしまう。これが第二の心理モデルだ。上で挙げた一連の失言を見ても、「内輪」かそれに近い相手に話かけて調子に乗ってしまった。

職員におぶわれて水たまりを渡る務台俊介・内閣府政務官=2016年9月、岩手県岩泉町
 第一の心理モデル(抑圧された本音と意識上の政治正義)は、失言の必要条件を提供するが、十分条件ではない。この第二の心理モデル(構造)が、それを提供する。

 もちろんこれは「社会的アイデンティティ」、つまり「どの集団に属している(つもり)か」の問題だが、難しいのはそれが(目の前の集団に引きずられて)潜在的・反射的に働くため、とっさに制御しきれない。ぶら下がりインタビューなどでも、誰を相手として思い描くかで、失言は起き得る。「(心理的な)集団の切り替え」がうまくできないから、後始末まで失敗する。

 瀬戸内寂聴尼が死刑存続論者を「殺したがる馬鹿ども」と呼んで、「被害者に対して無神経」と非難された一件も思い出す(昨年10月)。これは

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