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ジェンダー研究にしかけられたイタズラ論文

ネット版の学術雑誌で起きた「第2のソーカル事件」は失敗だった

粥川準二 サイエンスライター

 今年5月19日、『説得的社会科学』というオープンアクセス・ジャーナル(インターネットで無料公開されている学術雑誌)に「社会的構築物としての概念的なペニス」という論文が掲載された。著者は「南東部独立社会研究グループ」のジェイミー・リンジーとピーター・ボイル。

 この論文は“概念的なペニスは解剖学的なものではなく、社会的構築物である”と主張する、きわめて難解なものだ。

 この論文は「社会学」に分類されている。社会学の学位を持つ筆者が、もし事情を知らずこの論文を読んでいたら、大学院時代の悪戦苦闘を思い出しただろう。

 しかしこの論文は、哲学者のピーター・ボゴジェンと数学者のジェームズ・リンジーが偽名で行った「ジェンダー研究に対するいたずら」であった。彼らは『説得的社会科学』に、ジェンダー研究っぽい言葉で埋めた、でたらめな文章を並べたものを論文原稿として意図的に投稿した、とウェブメディア『スケプティック』で暴露したのだ。同誌の編集長は、記事の序文で「(ジェンダー研究における)極端なイデオロギーを暴露することは必要であり、望ましいことだ」と書き、彼らを称賛している。

「ソーカル事件」に酷似

 この出来事は「ソーカル事件」にそっくりである。1994年、物理学者アラン・ソーカルは『ソーシャル・テキスト』というジャーナルに「境界を侵犯すること」という論文を投稿し、同誌はそれを1996年に掲載した。しかしそれは、当時人気のあったポストモダン思想家たちの文章を引用し、それを数学や物理学の理論のデタラメな説明に結びつけたもので、意味のない偽論文だった。しかもそれは、ポストモダン思想系の科学論に対する批判への反論を集めた特集号に掲載された。ソーカルはそのことを別の雑誌で暴露し、一般メディアも広く報じるほどの大論争となった。

 実際、ボゴジェンらは自らの行為を「ソーカル・スタイルのいたずら」と称している。しかしながら、ボゴジェンらの目的が、ジェンダー研究という分野全体が「極端なイデオロギー」に満ちていて、無意味で、荒唐無稽で、社会科学として成立していないと暴露することであったならば、それは明らかに失敗している。以下、主に『サロン』という別のウェブメディアに掲載された著述家フィル・トーレスの論考を参考に、その理由を述べる。

自費出版モデルの欠陥

 まず『説得的社会科学』は「自費出版モデル(pay-to-publish model)」で運営されており、原稿が査読を通過した著者に、1350ドルを掲載料として払うよう求めている。著者に掲載料を求めること自体は珍しくなく、『ネイチャー』などでも行われている。

 ただし最近のオープンアクセス・ジャーナルのなかには、きわめて甘い査読しか行わず、どんなに問題がある論文でも、掲載料目当てで掲載してしまうものもあることが問題視されている。そうしたジャーナルは「捕食ジャーナル(predatory journal)」と呼ばれ、そればかりを発行する「捕食出版社(predatory publisher)」も存在する。

 たとえば『サイエンス』誌の記者ジョン・ボハノンは、高校を卒業した者なら誰でも気づくはずの欠陥のある原稿をオープアクセス・ジャーナル304誌に投稿したところ、半数以上が採択したという。そのなかには捕食出版社だけでなく、大手の学術出版社や学会、学術機関が運営するものもあった。ボハノンの試みで暴露されたのは、各誌が専門とする分野の欠陥ではなく、自費出版モデルという運営形態の欠陥である。

出版社は査読者選定の間違いを認める

 また『説得的社会科学』は、ジェンダー研究の専門誌ではない。編集委員会には、ジェンダー研究を専門とする者は1人もいない。もっといえば、編集委員たちの専門は観光、犯罪、地理など幅広く、よくいえば学際的だが、悪くいえばまとまりがない。おそらく社会科学であればどんな分野の論文でも掲載を検討されるのだろう。ここで「ソーカル・スタイルのいたずら」をしても、ジェンダー研究という分野全体の欠陥が明らかになるとは考えにくい。

拡大代表的な科学誌、ネイチャーとサイエンスは大勢の専門スタッフによって編集されている

 同誌の発行元テイラー&フランシス社によれば、 ・・・続きを読む
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筆者

粥川準二

粥川準二(かゆかわ・じゅんじ) サイエンスライター

1969年生まれ、愛知県出身。国士舘大学、明治学院大学、日本大学非常勤講師。「ジャーナリスト」や「社会学者」と呼ばれることも。著書『バイオ化する社会』(青土社)など。共訳書『逆襲するテクノロジー』(エドワード・テナー著、山口剛ほか訳、早川書房)など。監修書『曝された生 チェルノブイリ後の生物学的市民』(アドリアナ・ペトリーナ著、森本麻衣子ほか訳、人文書院)。

 

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