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「逃げず、隠さず、嘘つかず」と正反対の政府発表

BSE問題が残した誤解と教訓、そして課題

唐木英明 東京大学名誉教授、公益財団法人「食の安全・安心財団」理事長

 国内で続けられてきた食用牛での牛海綿状脳症(以下BSE)検査が今年4月、原則として廃止された。2001年9月にBSE感染が国内で初めて確認され、翌月からすべての食用牛を対象とする検査を導入。段階的に検査条件を緩和しながら、13年7月からは生後48カ月超の食用牛に対して続けられてきた。

 現在、筆者はこの問題についての報告書に取り組んでいる。「いまさらBSE問題を取り上げるのか」といった声もありそうだが、多くの人々はこの問題が残した教訓や課題を十分に理解しないまま、忘れ去ろうとしている。15年以上も続いた検査が廃止されるにもかかわらず、報道もほとんどなかった。BSE問題の歴史を振り返り、問題点について述べてみたい。

「発見から全頭検査まで」の第1幕

 BSEに感染した疑いがある乳牛が2001年9月に日本で初めて発見されると、牛肉の売り上げは急速に落ち込んだ。英国での歩行困難なBSE感染牛の映像と新変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(以下vCJD)の若者の悲惨な映像が連日放映され、牛肉を食べると必ずBSEに感染してvCJDになるかのような恐怖が広がった。

競りに出された子牛を見定める畜産農家ら=2008年、松江市
 BSEの病原体は「特定部位」と呼ばれる牛の脳や神経に蓄積する。そして、この特定部位を食べることによって、牛も人もBSEに感染する。だから牛から人への感染を防止するためには特定部位を食用から外せばよいし、牛から牛への感染を防ぐためには特定部位が混入した肉骨粉を禁止すればよい。これはたとえばフグでも、毒が集まる肝臓などの部分を廃棄すれば安全に食べられるのと同じであり、安全対策はこれで十分なのだ。

 だが、政府は畜産業と牛肉関連産業の苦境を救うための安心対策として、EUにならって30カ月超の牛の検査を計画した。ところが「検査をするなら全部やるべき」という強い声が上がり、これに押されて全年齢の全頭検査が実施されることになった。すべての食用牛を検査して、「シロ」になった牛だけを市場に出すという政府の宣伝効果もあり、パニックは次第に収まっていった。

 これがBSE問題の第1幕の簡単な歴史だ。

英国は全14巻の膨大な報告書に

 発見から16年以上がたち、BSE問題は人々の記憶から消えつつある。しかし、BSE問題をこれで終わりにしていいのだろうか。18万頭を超えるBSE感染牛が発生し、178名がvCJDで死亡するという大きな被害が出た英国は、2000年に14巻の膨大なBSE報告書(BSE Inquiry)を発表した。その内容はBSE問題の経緯、リスク管理の検証、問題解決に携わった人たちの証言、そして学ぶべき教訓であり、悲劇を二度と繰り返さないという決意が読み取れる。

 振り返って日本を見ると、農林水産大臣と厚生労働大臣の私的諮問機関として設置された「BSE問題に関する調査検討委員会」が、BSE発見から約5カ月後に報告書を発表した。海外からBSEが侵入し、感染した牛が発見され、対策が実施されるまでの行政の対応について検証されている。本文37ページという短い報告書ではあるが、BSEに関する農水省の甘い見通しが「重大な失政」につながったことを指摘し、リスク評価を行う独立の機関である内閣府食品安全委員会の設置につながった重要な内容である。

 この日本の報告書が取り扱ったのは、1990年代から2001年までの国内での問題だが、その後、第1幕とは全く違った様相の第2幕が始まった。

「米国でBSE発見」からの第2幕

 2003年末、米国でBSEが発見され、国内の牛肉消費量の約3割を占める米国産牛肉の輸入が停止した。日本は輸入再開の条件として国内と同じ対策を米国に要求した。すなわち全頭検査の実施だ。ところが、米国は検査に安全対策としての科学的根拠がないとして拒否した。

米国でBSE感染の疑いが見つかり、売り場から撤去される米国産牛肉=2004年、福岡市
 実は、牛は生後半年以内にBSEに感染するが、脳に病原体が蓄積して症状を表すのは平均5歳で、それまでは検査をしても「シロ」になってしまう。とくに30カ月以下の若い感染牛はほとんどすべてがシロの判定になり、食用になるのだ。しかし、特定部位を除去しているので、検査をすり抜けた感染牛を食用にしても感染の恐れはない。だからEUではすべての牛の特定部位を除去することで牛肉の安全を図り、感染が検出できる30カ月超の牛だけ検査して、「感染が分かった牛は食用にしない」という安心対策を実施しているのだ。

 ところが日本政府は「すべての牛を検査して、BSEではない牛肉だけを市場に出す」という広報を続けたため、多くの人たちが「全頭検査こそが最重要のBSE対策」と誤解し、特定部位の除去の重要性を忘れてしまった。だから米国に全頭検査の実施を要求するのは当然だと信じ、これを拒否した米国に対してメディアも消費者も強く反発したため、輸入再開交渉は暗礁に乗り上げた。

 こうして、第1幕では危険と言われた国産牛肉が、第2幕ではにわかに安全な牛肉と言われるようになった。

欠かせない「経緯と対策の検証」

 また、ここにきて全頭検査の科学的な意味が話題に上るようになり、政府は結局、科学的根拠に従って多くの反対を押し切る。検査月齢を21カ月以上に変更し、2005年末、20カ月齢以下の米国産牛肉に限って検査なしで輸入が再開したのだ。ただし消費者の反発を懸念して全都道府県が全頭検査を継続し、国は検査費用を補助した。

 その後、米国からは21カ月齢以上の牛肉についても輸入再開の要求が続き、6年半後の2013年に日本は検査月齢を30カ月超に変更し、米国産牛肉の輸入も30カ月齢以下まで拡大した。また同じ年に日本は、国際獣疫事務局(OIE)からBSEのリスクが「無視できる程度」であると認定され、これを受けて検査月齢を48カ月超に変更。さらに2017年には、16年間続けられたと畜場での食用牛の検査が廃止された。しかし、30カ月以下という米国産牛肉の輸入制限は撤廃されていない。

 これが第2幕の概要だが、この間の問題についてはその詳細な経緯も対策の検証も行われていない。今、関係者の経験を聞いておかなければ、BSE問題の第2幕は忘れ去られてしまう。そんな危機感から、BSE問題にかかわった数十名の政治家、行政担当者、消費者、事業者、メディア関係者、研究者、米国関係者の経験と意見を聴取するとともに、国会での質疑や新聞報道などを加えて問題の経緯を確認し、関係者の証言を中心にしてBSE問題を多角的に検証することを始めた。

思惑が外れた日米の両政府

 この検証の結果は、来年3月までに何らかの形で公表する予定だが、これまで表面に出ていなかったいくつかの事実が明らかになってきている。

 たとえば、米国産牛肉の輸入停止は日米ともそれほど長く続くとは考えていなかった、という点だ。日本の米国産牛肉の在庫は3〜4カ月であり、

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