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IT時代に見えてきた新しい南方熊楠像

膨大なデータを集めて処理した偉大な「情報提供者」

米山正寛 ナチュラリスト

 型破りな人生を送りながら、自然や文化の幅広い分野の調査を続けた南方熊楠(1867〜1941)。「森羅万象の探究者」「近代を乗り越える思想家」「自然保護の先駆者」などと評されてきたが、果たしてそうだったのか。ここ10年ほどの研究で、そうした見方は必ずしも熊楠を正しく捉えていないと考える研究者が増えてきた。東京・上野の国立科学博物館(科博)で開かれている企画展「南方熊楠―100年早かった智の人―」(3月4日まで)では、そうした考えに沿った新しい南方熊楠像が打ち出されている。企画に当たった人たちの描く熊楠像を探ってみた。

後世に委ねられた多数の標本

南方熊楠(所蔵:南方熊楠顕彰館)
 南方熊楠は和歌山市の商家の生まれ。幼少時からさまざまな知識欲にあふれ、『和漢三才図会』(105巻)など当時の百科事典の筆写に励む子どもだった。中学では明治維新で入ってきた西洋の博物学にふれ、東京帝国大学予備門に進学するも中退し、19歳で商売の勉強を名目に渡米した。実際にはミシガン州のほかフロリダ州などを回り、植物や菌類の調査で5年ほどを過ごした。その後、1892年には渡英し、ロンドンでは大英博物館図書室で本や雑誌を読みあさり、ノートに抜き書きをするような生活の中で、英語で雑誌への投稿を繰り返した。1900年に帰国後は、紀伊半島南部の那智で採集調査の生活を送り、1904年からは和歌山県田辺町(現、田辺市)で暮らした。

 自然科学の立場から熊楠を見ると、変形菌(粘菌)の研究者だったというイメージが強い。1908年に日本産変形菌の目録を発表しているし、新属新種の発見もしている。和歌山県を訪れた昭和天皇へ進講した際には変形菌の標本を贈った。ただ科博名誉研究員の萩原博光さんは「一番集めたのは微細藻類で、きのこなどの菌類も多い。そのほか地衣類、大型藻類も集めた。しかし、これらは実際には一つも成果が発表されていない」と話す。自然科学の分野では、当時で言う隠花植物(花をつけない植物)全般に相当な興味を持って野外を歩き、優秀な調査者、採集者だったようだが、ただひたすら標本を集め、記録を残すことに励んだ。菌類は米国で指導を受けたこともあり、自分の手元に詳細な図譜(スケッチとメモ)を残したのだが、それ以外は集めた標本を後世に委ねる形になった。

ノートに残された多数の「抜書」

 これについて、少し熊楠を知る人なら、「でも、あの科学誌のネイチャーに50本以上も論文を発表したのでは?」と疑問に思うだろう。それに対して関西大学人間健康学部准教授の安田忠典さんは「あれは今の次元で言う論文ではなくて、研究メモ程度のもの。近代的な自然科学は仮説を立て、それを実験や観察で検証していくものだが、そうした研究を熊楠はしていない」と指摘する。その上で、大英博物館図書館へ出入りしていた時期の熊楠をこう語る。「あそこは当時、世界中で本などが一番集まる図書館。そこで雑誌や新聞なども含めた多様な情報を集め、『抜書』(ぬきがき)という形のメモをノートで52冊もまとめた。そして、そうした資料をもとに書いた記事を発信し続けた」

南方熊楠の採集品(所蔵:国立科学博物館)。多数の標本を残したが、熊楠の手で成果が発表されることはなかった
 熊楠が書いた記事は、民俗や伝説など人文系の分野を中心として多岐にわたり、帰国後も多くの情報を地域の人たちとの会話や文献から得て、幅広い雑誌に投稿し続けた。四国大学非常勤講師の平川恵実子さんは「コピー機のない時代ではあったが、それにしてもよく書いている。熊楠は記憶力の良い人として有名だが、それを支えたのは書くことだったのかもしれません」と話す。

 では熊楠は、集めた情報から原稿を書く過程で、記憶やメモをどのように扱っていたのだろうか。

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