少数派を貫きつつ、未来の勝利を確信していた革命家
2018年03月23日
仮説実験授業を提唱し、教育の革命のために全速力で駆け抜けた板倉聖宣さんが2月7日に永眠した。87歳だった。国立教育研究所に所属しながら、研究所の枠をはるかに超える仕事を成し遂げ、定年退職後も著書や論文を書き続けた。2007年に脳梗塞を起こし、まもなく回復したものの2015年から入退院を繰り返していた。生前「人は死んだら原子分子に分解される」と言っていたご本人の望み通り、葬儀は宗教色のあるものを排し、原子模型などをたくさん並べてにぎやかに執り行われた。全国から約500人が参列した。
2月14日の通夜。東京都府中市の府中の森市民聖苑の一室に設けられた祭壇には板倉さんの著書がずらりと並び、あちこちに原子模型が飾られた。盟友たちが語る悼む言葉のあたたかさと熱さ、そして並んだ著書の多さに、故人の類いまれな情熱とパワーがびんびん伝わってきた。
板倉さんは教育研究者であり、科学史家で思想家でもあった。東京大学教養学部科学史・科学哲学科で学び、物理の大学院を経て1949年に国立教育研究所へ。子ども向きの科学読み物の普及に注力する一方、学校の理科教育の改善も目指し、1963年に「問題・予想・討論・実験」を軸とする「仮説実験授業」を提案した。1967年夏には第1回全国合宿研究会を開催、これをきっかけに各地の学校で仮説実験授業が実践されるようになっていく。
「こういう実験をしたらどうなるか」と教師が問いかけ、子どもたちが自由に予想し、討論し、出てきた仮説のどれが正しいかを実験して確かめるという授業だ。朝日新聞は「子どもたちの好奇心を刺激し、楽しみながら物ごとの原理を学ばせる授業」と説明したことがある。具体的な授業プランを板倉さんが精力的に作り、それは「授業書」と呼ばれるようになった。理科にとどまらず、地理や歴史などの授業書も生まれた。
日教組と文部省が鋭く対立していた時代は、教育の研究をする人たちも組合系と文部省系に分かれていたが、仮説実験授業研究会はどちらにも属さない道をとった。1973年には数学者の遠山啓氏とともに太郎次郎社から雑誌『ひと』を創刊。この雑誌を舞台に「『分かる授業』よりも『楽しい授業』の方が大切だ」という主張を打ち出す。1979年に遠山啓氏が急死したのをきっかけに板倉さんは『ひと』の編集から手を引き、1983年に仮説社から『たのしい授業』を創刊した。
この雑誌は今年3月号で474号を数える。そこの追悼特集に入っている1992年の講演録からは、思想家としての板倉さんが浮かび上がる。
「真理は押しつけてはいけない。押しつければ直ちに誤謬になります」。だから、仮説実験授業も押しつけてはいけないのだ。もし、
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