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ネット上の「黒歴史」、消すための方法は――連続討議「ソーシャルメディア社会における情報流通と制度設計」から(4)

情報ネットワーク法学会

情報ネットワーク法学会

 ネット上に残しておきたくない過去の「黒歴史」。誰にでも起こりうることだが、それを「忘れられる権利」はあるのか。技術で実現するのか、制度で実現するのか。討議メンバーのディスカッションでは、プライバシー保護の問題から、プラットフォーマーの競争のあり方まで、多岐にわたる議論が繰り広げられた。(構成・新志有裕)

不都合な情報を検索対象から除外

<藤代>ここで聴講者の質問に答えます。まずは、ログ消去の手法が気になっているという質問です。

(聴講者)ユーザーにとっては、不都合な情報発信が起きてしまうリスクがあります。例えば、会社をサボってどこにいた、という情報を公開されてしまったときに、ユーザーが都合よくデータをオミット(拒否)できるシステムはあるのでしょうか。

<五十嵐>ライフログの研究では、例えば、PCのデスクトップをずっと録画し続けて、一元管理して見られるようにサムネイル画像を置いておき、1カ月くらい前にあったファイルが見つからなくなった時に、検索して探し出す人もいます。でも、そうすると非常にプライベートな情報もすべて録画されてしまいます。そこをうまくカットする技術を考案している最中だと思います。

 また、写真データを保存しておく過程で、新しい彼女ができた時に、かつての彼女の画像を削除するシステムというのも議論されています。「黒歴史」と呼ばれる不都合な情報を、写真の顔認証やタグ付けなどを駆使して検索されないようにすることは可能です。

<生貝>この問題は、「忘れられる権利」という文脈で、法制度の領域では大きく3つのアプローチに分けて論じられています。

 1つめはいわゆる「ノーティス・アンド・テイクダウン」アプローチで、権利侵害だと言われた時に削除するというやり方です。表現の自由を害さないようにするため、一度発信元に確認を取る、というプロセスが日本では確立しています。

 2つめは「プライバシー・バイ・デザイン」アプローチで、フェイスブックのような個人情報利用サービスを作るときに、その設計の段階で、その人に関する情報をいつでも消せるようにしておくという方法です。

 3つめが最も議論が分かれるところで、いわゆる「ジェネレーション・グーグル」アプローチと呼びます。僕たちは、ほとんどグーグルでしか人の名前を検索しないので、結局はグーグルに特別な義務を課せばいいよねという話です。その時に、どういう基準でどの程度の義務を課すことが適切なのか、というのが問題になります。3番目以外は、現在の法律でも大体実現していますよね。

<一戸>個々の情報がバラバラになってどこに行ったのか分からなくならないように、国が一元管理するわけですね。

企業のライフログを公的機関に集中

<生貝>英国では、官民共同の第3セクター的な団体、公私の共同規制組織として作ろうとしています。最も重視されているのは自己情報コントロール権の強化で、消費者はいつでも自分のライフログを消したいときに消せるようになるわけです。英国では、各企業が保有するライフログ情報を公的機関に集中させて、それを消費者自身が管理し、小さな企業も匿名化された安全な形で使えるようにしようという「midata」(マイデータ)という構想が進められています。

<一戸>削除や訂正のアプローチは「midata」が内容の正確性などを保証するのでしょうか。

<生貝>共同規制的措置ですが、その組織に1回申請すれば、各企業に保有されている情報を含め、ワンストップで消去や訂正ができるというものです。これが可能になるのは、EUのプライバシー保護制度が、強力な自己情報コントロール権を認めているからです。日本の現行の法制度で同じことを実現するのは難しいと思います。

<山口>ユーザーが死んだ時のデータの話をしてみましょう。死者のデータについて、フェイスブックは扱い方を決めています。そうしないと、そのデータが流れ出したときにどうするのかという問題が生じます。この問題を制度的にどうやって解決するのか。例えば、各社とユーザー間の契約で解決するのか。それとも、「忘れられる権利」にもとづいて取り扱うのか。

<生貝>制度的には、死後の情報には基本的に個人情報保護は適用されないので、不法行為上のプライバシー侵害の救済という形での対応になります。それが可能になるのは、その人の情報というものが子孫に何かしらの損害を及ぼす場合です。遺伝の疾患の病気などで、子や孫に影響が及ぶ場合に、その影響を受ける人が法的に差し止め請求などをすることできます。

ジャーナリズムは集中か、分散か

<生貝>従来のメディアのヒエラルキーが、情報のネットワーク化によってフラット化する一方で、そのネットワークの持つネットワーク性そのものによって情報の流通が加速する「べき乗」の構造が現れ、Googleなどの新しい巨大な力が生まれてくるという認識は共有していると思います。そのうえで、藤代さんに聞きたいのですが、誰もがジャーナリズトになり得る時代には、ジャーナリズムはひたすら分散化していくべきなのでしょうか。あるいは、ある程度は集中した方がいいのか。分散とも集中とも異なるもっと違った形があると考えているのか。

 木村さんに聞きたいのは、発表の最後に示されたように、今、ライフログの収集は個人のデバイスで分散的に行われつつも、AppleやGoogleなど一部の企業に集約されるという事態が進んでいます。そうしたときに先ほど挙げた英国の「midata」(マイデータ)構想のように、ライフログの独占や共有のあり方は、競争法的観点からも重要になってきています。結局は、ライフログは集中すべきか分散すべきか、あるいは真ん中なのか。構造はどうあるべきなのでしょうか。

<藤代>集中か分散かではなく、集中と分散が同時並行で進むと考えています。なので、発信力、メディアパワーに応じた権利と責任を提案しました。発信力に関して、吉川さんは「インターネットメディアは政府のカウンターパートナーとしては不十分」と指摘されました。これは、現状ではインターネットメディアは政治に影響がない、発信力がないということです。しかし、今後は変化していくでしょう。ソーシャルメディアにも政治に対して発信力を持つところが出てくると思います。

 政治に影響を持つメディアをマスメディアと呼ぶのかは分かりませんが、人々に対して幅広い伝播力を持つ何らかのマスメディアがなくなることはないでしょう。マスメディアは新聞やテレビとは限りませんが、ミドルメディアもあり、パーソナルなメディアもあります。マスメディアは数が少なく集中していて、パーソナルメディアは分散です。このメディアの三層構造を踏まえると、発信力に応じて権利と責任を規定したほうがいいのでは、というのが私の考えです。

 これまでは、口コミのようなパーソナルメディアか、新聞やテレビといった既存マスメディアしかなかった。しかし、メディア環境が複雑化、多様化してメディアのパワーに大中小が生まれているときに、段階的な制限というものが考えうる状況になっているのではないでしょうか。

<木村>分散と集中という表現が近いかなと思っていますが、ある意味、企業の活動として集めたいろんな情報を国が一元的に管理するというのは、逆にとても危険を感じます。企業活動によって得られる情報の統合や集積は、国家権力に対するカウンターパートとして、あってもいいと思っています。だから、一概に制限するというのは、それはそれで難しい面もあるのではないか。多種多様なメディアのプレーヤーがいる中で、全体としてどういう風にバランスを取るのかは、一概に答えを出せません。ただ、ウェブ業界で大きな力をもっている企業の相対的なパワーバランスは強くなっていますね。そして、個人の側が思った以上に持っていかれているというのも確かです。

メディアの影響力を判断する基準とは

<山口>今の議論は、メディアの影響力の話ですが、大中小を選定する基準はどうなるのでしょうか。

<藤代>基準は決めていません。発信力やメディアパワーといったあいまいな言葉で表現しているのは、どのような基準がふさわしいのか、現時点では分からないからです。

<山口>基準は、伝わる情報の範囲だけではないと思っています。リスクというのは、100万人に間違った情報が伝わることと、1人に伝わってその人が自殺するのは、どっちが危険なのか。どういう情報を伝えれば、実害が一番少なくなるのかを考える必要があります。

<西田>やはり、単純にメディアの影響力だけでもないんじゃないか。どういう例がいいのかわからないですが、リベラルな人たちのあいだでは「朝日新聞」というと、なんとなくいいイメージがあります(笑)。ですが、その根拠はあまり明確ではありません。昔から、朝日新聞はいいと思われてきたからいいという程度のものです。実際には朝日も時折間違えていて、時折正しいことを言っているという程度のことです。部数でみると、読売よりも少ない。でも、朝日新聞は紙の媒体であろうが、ネットに出て行こうが、ある種の信頼感を、ひとつの重要な既得権としてもっています。

 でも、ネットメディアはそれがまったくない状態からスタートしなければなりません。たとえば、Yahoo!JAPANはネットでは圧倒的に見られているかもしれませんが、なんとなくいいという空気はもしかしたら朝日新聞デジタルの方が強いかもしれません。そう考えてみると、信頼というファクターが重要ではないかという気がします。

<藤代>例えば、Yahoo!JAPANは、政策決定のカウンターパートナーとしてありうるのでしょうか。今はないと思いますが、もし独自取材するニュースチームがあったら、どうでしょうか。

<吉川>ありうるんじゃないでしょうか。特に官邸などのスタッフは、ダイレクトに国民にどれだけ響くかを非常に気にします。ネットとはいえ、Yahoo!ニュースであればインパクトは大きいのではないでしょうか。

<生貝>情報の持つリスクにしても信頼にしても影響力にしても、評価軸のマルチディメンションを仮説的にでも、ある程度特定しておく必要があると考えています。そのディメンションには、「広さ」と「深さ」に加えて、「時間」の概念が含まれるべきだと考えています。情報が時間軸に残り続けることのプライバシーリスク、あるいは時間を経るからこそ得られる情報やメディアの影響力、そして信頼性。僕としてはこの3次元を提案したいと思います。

予測が予期より遅れる理由

<伊藤>ちょっと理解できなかったのですが、予測が予期よりも遅れる理由は何ですか。

<西田>人はなにがしかを期待するというのが「予期」、こういうことが起こりうるという情報をもって動くのが「予測」というわけです。予測は、情報を提示された瞬間よりも、どうやっても時間が遅れますよね。ところがICT(情報通信技術)の進化によって、予期と予測の距離が縮まっていきます。木村さんの発表によると、昔は、インフルエンザの流行を知るためには1週間かかりましたが、今ではリアルタイムですぐにわかるようになりました。ただ、渋滞情報は怪しいかもしれません。渋滞情報を知った人は次の行動をとるからです。みんなが渋滞を避けようとして迂回路を通ることで、かえって混雑することもあります。人に選択の決定権が委ねられているのだとすると、予測は常に外れる可能性を持ちます。

左から五十嵐、山口、伊藤、西田各氏左から五十嵐、山口、伊藤、西田各氏
<伊藤>(アナウンス効果が指摘される)選挙の情勢調査みたいなものですね。

<藤代>整理すると、東京アメッシュを見て「あ、もうすぐ世田谷に雨が来そうだ」と考えるのは「予期」で、傘を買うのは「予測」ということでしょうか。ただ、自然現象と選挙の投票行動は違うかもしれません。天気の場合は、人が行動しても結果は変わりませんが、選挙の投票行動は変化が起きる可能性があります。

<山口>観察することで変わってしまうんですね。

<木村>情報を見せられたことでの行動変化というのは、みんなが同じ情報を見ているから、同じような行動をとるのかもしれない。でも今は、ネットの検索などで同じキーワードを入力したとしても、結果として表示される情報が人によって変わってきます。個人がそれぞれ目にする情報は違ってくる。だから、微妙な問題ですが、必ずしも予測が外れるとは限らないかもしれません。ただ、グローバルなものについてはみんなが共有するし、みんなと同じ行動をとるということがあるかもしれません。

<西田>個人の行動と集団行動、社会学でいう「集合行動」とは関係するのかということです。渋滞については、それぞれが行動した結果、最終的にはマクロな結果が出ます。でも、購買行動は個人で完結しています。

<五十嵐>情報を誰が提示するのか、誰に見せたいのかによって、ある程度行動を操作できます。同じソースであっても、誰が誰にどう見せたいかでいろいろと変わってきます。どうやって見せるかで、よくも悪くも人の行動のデータが取れてしまうし、行動をコントロールできてしまいます。

<藤代>検索結果は、みんなが同じものを見ていると思っているけれども、実は人によって違う。だから、ソーシャルメディアでユーザーを誘導することも可能でしょうね。

<五十嵐>GoogleにIDでログインしている時とログアウトしている時の検索結果は違います。

<藤代>ある政党の認知を高めるために特定の情報に触れさせようとして、Twitterで推薦するフォロワーや流れてくるツイートなどを操作して誘導するといったことも、プラットフォーム側がその気になれば技術やシステム的には可能ですね。

予測で国家の意思決定ができるのか

<吉川>そこは、プラットフォーマーが何か意図しているというよりも、ユーザーに善かれと思って最適化してやった結果と見るのが自然でしょう。基本的には、自分向けにカスタマイズ可能なメディアの利用は、人間の興味をその興味がある一方向に細分化・先鋭化する方向に力が働きがちなのではないかと思います。だから、例えばTwitterを使っている人たちの中には、自身の興味・関心のバランスを取るべく、なるべく異なる意見・異なる関心分野の人をフォローしようと工夫をしたりする人もいると思います。ただ、そのバランスを取ろうという行為もバイアスからは逃れられない。それは、必ずしも悪いことではないと思うのですが、どうバランスが取るのかが難しくなっているとは思います。

<藤代>情報摂取のバランスを取ることがよいことだ、という枠組みをいったん外して議論する考え方もありますね。バランスを取らなくてもいいという考え方もあります。

<一戸>ただ、政治的に左の人に、右の情報を意識的に与えるといったコントロールも技術的には可能でしょうね。

<生貝>こうした問題はよく、(将来予測のための先物市場として実験されている)予測市場の文脈では、「自己実現的予測」という言葉で議論されています。例えば米国では、人々の予測が正しく機能するのであれば、予測で国家の意思決定をすればいいという「プレディクトクラシー」という概念も論じられたりしています。

 しかし、こうした集合的意思決定の問題を論じる際には、それが「何について決めようとしているのか」を分けて考えないといけません。3つくらいあって、1つは事実に関することです。人々の有する知識の集積が正しければ、それに合わせて意思決定を行えばいいわけです。もう1つは期待に関すること、つまり株価やグラミー賞の受賞者です。3つ目は、民主的レジティマシー(正統性)に関する集合的意思決定です。これについては、権力者やプラットフォーマーによる恣意的な世論の誘導というのが深刻なリスクになり得ます。予測市場は重要でありながらも、しかしそれは、レジティマシーに関わる問題の意思決定からは切り離さなければなりません。

ビッグプレーヤーもすぐに倒れる時代

<吉川>データを大量に、複数のサービスにまたがって保有しているプレイヤーが世界にはいます。その人たちに好き勝手やらせていいのか、ルールが必要ではないか、という議論はずっと以前からあったものです。役所の中でもそういう議論はなされてきました。ただ、基本的には、今までの制度の枠組みではなかなか縛るのは難しいです。それに、本当に縛るのが適切なのかという議論もあります。

 おおざっぱに言うと、伝統的に独禁法等の競争政策の対象となってきた大きなビジネス主体というのは、電力会社や電信電話会社等のように、巨大な設備など初期投資が非常に大きく、他企業が容易に新規参入できないような産業のプレーヤーです。こうした産業では、独占的にあるプレーヤーに事業を認める代わりに、競争法や業法等を通じていろいろな義務を課してきました。

 しかし、ネットビジネスのビッグプレーヤーというのは、そのような物理的なボトルネック設備を持ってはいません。彼らのシェアの高さは、競争の結果、勝ち抜いてきたという構図が多いのではないでしょうか。もちろん、そのビッグプレーヤーが不当に市場競争をゆがめている場合は、何らかの対応が必要でしょうが、これは現行制度でも対応可能なものです。

 ただ、個人的には、ネットビジネスのように変化の激しい業界では、制度的な対応のスピードが追いつかないこともあり、企業間の競争がきちんと継続的に生じる環境を保つことに政府が注力することが大事なのだと思います。ビッグプレーヤーといえども、新たなサービスが登場すれば、意外とすぐに倒れてしまうというのが、ネットビジネスを見てきた我々の経験ではないでしょうか。ネットビジネスの競争環境を考える際には、一時点のシェアの高低を論じるよりも、このシェア自体は時間の変動に応じて激しく動く可能性があるものなので、競争がしっかり働く環境を整えることがとても大事だと思います。

Yahoo!ニュースが中立なのはラッキー

<亀松>ビッグプレーヤーという話についていえば、自分の関心は「ニュース」にあるのですが、Yahoo!もGoogleも楽天もみな、ニュースポータルをもっています。僕は、そのようなビッグプレーヤーが運営するニュースサイトの「中立性」に注目しています。個人的な見解ですが、日本のYahoo!ニュースは中立的にやっている印象があります。日本のニュース系サイトの中では1強といえるYahoo!ニュースが中立的な立場で運営されているのは、ラッキーな状態だといえます。コンピュータプログラムによってニュースを機械的に並べているとされるGoogleニュースも、建前としては中立だといえます。

 その点、楽天については個人的な体験ですが、以前J-CASTニュースを書いていたときに、こんなことがありました。J-CASTから楽天インフォシークニュースに配信された記事の中に、アマゾンへのリンクがあった。それを見つけた経営幹部がトピックスの編集部に連絡してきて、「なぜ楽天ブックスではないのか」と言ったそうです。小さなことかもしれませんが、ネット企業では経営トップが大きな力をもつことが多いので、気になる出来事でした。

 今の日本のネットニュースの世界では、Yahoo!ニュースが月間77億PV(デバイス合計)と圧倒的な集客力を誇っていて、大半の人はYahoo!でニュースを見ているわけです。そういう巨大なプラットフォームにおけるニュースをどうコントロールするのか。今の日本はラッキーな状態だといえますが、もし別の運営主体が管理することになった場合、ニュースの方向性がゆがめられる危険性もあるのではないかと思います。

<伊藤>Yahoo!が恣意的に運営にしようということには全くならないと思いますけれども、ソーシャルメディア自体がもっと影響力を持ち始めて、ソーシャルメディア経由の情報流通がどんどん増加していくと、世の中全体として、中立が保てなくなるということはあるでしょう。

<藤代>「Web giants」の話は、ジャーナリズムの業界でも十分に検討されていません。インターネットメディア、インターネットジャーナリズムについては、新聞やテレビといったマスメディアが大きな影響力を持っていることを前提としています。インターネットを、マスメディアを脅かす、もしくはマスメディアのオルタナティブな存在として位置付け、その可能性について言及するものが多いです。

 プラットフォームの恣意性という亀松さんの指摘は、ウェブニュースの世界を経験した人にしか共有されていないのかもしれません。亀松さんはJ-CASTニュースもニコニコ動画も経験していますが、ニコニコ動画では、安倍(晋三)さんや小沢(一郎)さんが頻繁に出演し、政治との関係性が非常に強くなっています。一方で、ニコニコ動画はジャーナリズムではないとのポリシーを表明しています。日本新聞協会の原稿で書いたのですが、その問題点を指摘している人は多くありません。

<吉川>ニュースも競争財と見れば、好き勝手にやって、支持されない報道機関は淘汰されればいいという考え方もあります。もちろん、現実的にはニュースを提供するプラットフォームの数には限りがあり、適切な競争環境にはない、そのような環境で本当に競争に任せていいのかという見方もありますね。また、ニュースや報道の中立性の定義はかなり難しい。かつて業務で検索エンジンの中立性について考える機会がありましたが、中立的な検索結果とは何かを定義することは容易ではありません。ニュースも同じで、中立性の定義は人によって違うので、基本的には競争に委ねるべきだと私は思います。

民間には中立性ではなく、透明性を求めるべき

<生貝>まさに、霞ヶ関に行くたびに聞かれるのですが、検索エンジンのようなものが果たして競争上の不可欠施設に該当するかといった問題は、アンチトラストの文脈でアメリカやEUでも広く議論されています。どちらかというと僕も競争に任せるべきだと思います。しかし、競争は物事を適正化するための1つの手段にすぎません。競争が不十分ならば、やはり公的介入が考慮されるべきなのです。

 しかし一方で、ここで議論になっているような「中立性」を民間に求めるべきではありません。ごく一部のコモンキャリアなどを例外として、民間は徹底的に恣意的であるべきで、法制度などによって中立性を求めることは、まさにそれこそが、国家による特定の価値観の押し付けとして機能する恐れがあります。民間部門については「透明性」が重要なのです。そもそもその企業が何をやっているのか分からないと消費者は選択できず、競争は適切に働きません。政府には中立性と透明性の両方を求めるべきですが、民間には中立性ではなく、透明性を求めるべきなのです。それをどの程度求めるのかは「Web giants」の影響力の程度によります。

<西田>競争に委ねた結果、しんどくなるものもあります。果たして公正とは何かという議論があります。公正な報道がなくなると、ある種のヘイトスピーチ(憎悪表現)になります。アメリカの政治報道では、ネガティブキャンペーンが急増しています。それを見るにつけても、単純に政府が透明性を要求して、ログをたどることができるようになったからといって、解決しない問題です。改善策は分かりませんが、やはり公平性について、政府はなにがしかの要求を課しておいて、議論を継続させるような制度設計が大切です。

客観・公平な報道を求める声が出てくる理由

<藤代>新聞は「客観報道」を名乗っています。テレビやラジオは放送法で「公平」であることが規定されています。「Web giants」はニュースサイトを運営していますが、客観を名乗ってもいないし、法的にも自由です。となれば、客観や公正を誰が保証するのでしょうか。競争にまかせて担保できるのでしょうか。個人的には客観報道などないと思っていますが、ネット上や学生の意見でよくあるのが「マスメディアのことは信用できない」「マスゴミは偏向報道している」などと批判して、客観・公平な報道を求める声です。

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