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ウエルベックの傑作小説『地図と領土』を読む(中)――高度消費社会に対する辛辣な揶揄、安楽死施設、SF的想像力など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 (上)に引き続き、ミシェル・ウエルベックの『地図と領土』における注目すべきディテールを項目別に引用し、若干のコメント/注釈を付したい。

■ブルジョワ揶揄(資本主義・高度消費社会への批評/批判の変奏)

*急に名前が売れ出したジェドに事よせて、ブルジョワ/金持ちを滑稽に戯画化するくだり――「レストラン関係者たちはセレブを好む。そしてカルチャーおよび社交界の話題を実に注意深く追っている。セレブが来る店であるということが、頭の空っぽな金持ち連中にとって本物の誘引力を及ぼすと知っているからだ。……一般にセレブはレストランを好むから、レストランとセレブのあいだにはごく自然に、一種の共生関係がなりたつ。ミニ・セレブになりたてのジェドは、自分の新しい立場にふさわしい謙虚な無頓着さを苦もなく身につけた」(72頁)。

 これも現代版バルザックといった趣の描写だが、またクロード・シャブロル監督の映画におけるブルジョワ風刺を想わせるフレーズでもある。そういえばシャブロル、ゴダール、トリュフォーら、<ヌーヴェル・ヴァーグ>の監督たちもバルザックの小説を愛好した。

*成金のブルジョワについての本作の箴言(しんげん)/アフォリスム風の省察も、辛辣(しんらつ)だ――「一般的に、貧しい階層の出身者が往々にしてそうであるように、彼[前出のギャラリー経営者フランツ]は急に金持ちになったことにうまく対応できていないようだった。財産を得て幸福になれるのは、昔からある程度裕福だった人間、子どものころから豊かさへの備えができていた人間だけである。人生の最初の段階で貧しさを知ってしまった者に財産が転がり込むと……、結局はすっかり圧倒されてしまう感情、それは<恐怖>である」(362頁)。

 ともあれこうして、ミクロな視点から主要人物の内面、行動パターン、私生活がていねいに書かれ、他方マクロな視点から芸術のマーケット事情や高度消費社会の諸相が社会学的、歴史的、文明批評的に精細に描かれ、それらが混然一体となって、この小説の力強い動線を形づくっているのである。

■豪華老人ホームと安楽死施設/自殺ほう助クリニックについて

*フランスのさる高級老人ホームをめぐる描写においても、いかにもこの作家らしい、シニカルな調子とSFタッチが冴えわたる――「それはナポレオン三世時代にさかのぼる大きな屋敷で、[ジェドの父親が]前にいたところ[老人ホーム]よりもはるかにシックで金のかかる、優雅でハイテクな死に場所とでもいう感じだった。住居スペースは広々としていて、居間と寝室があり、備えつけの大型液晶テレビで衛星放送やケーブルテレビも見ることができた。DVDプレーヤーや高速度接続のインターネットも完備していた。庭には小さな池があってアヒルが泳ぎ、手入れの行き届いた小径では雌ジカが跳ねていた。希望すれば庭の片隅を自分専用の菜園にして、野菜や花を育てることもできた――希望者はほとんどいなかったが」(312頁)。

*これに続く、ジェドが父をこの施設に移らせるため懸命に説得するくだりも、庶民の出である父の視点からのブルジョワ批判を含む、いわばコンパクトな“現代フランス社会論”となっている――「いまや息子[ジェド]は<金持ち>なのだということを父が理解するまで、何度も説明しなければならなかった。この施設に入っているのは明らかに、現役時代、フランスのブルジョワ社会でもっとも高い階層に属していた人々だけだった。『うぬぼれ屋とスノッブばかりだ』ジェドの父は一度そんな風に[ブルジョワを]評してみせた」(同上)。

 ちなみにこの老人ホームは、1930年代にスターリンが、ロシア西南部の温泉地ソチに莫大な資金を投じて開発した、一大保養地のミニュチュア版を想わせるが、そこは戦後ふたたび、特権階級が贅沢な休息を享受する“極楽郷”となった。

*ペシミストにして“さとり系”のジェドは、くだんの施設でモルヒネを与えられ緩慢に死へと至る老人たちについてこう考える――「本音をいえば、ジェドはそれもまた人生だと思った。何とも羨ましいような人生だとさえいえる。思いわずらうこともなく、責任もなく、欲望も恐れもなく、まるで植物のように、穏やかな陽光とそよ風に撫でられていればいいのだ」、と(314頁)。

 だがジェドの父は、自らの意思でこの老人ホームを出て、チューリッヒの安楽死施設/自殺ほう助クリニック、「ディグ二タス」――いわば資本主義文明の奇形的な突出点のひとつ――に入る。人工肛門を装着されている父の心境は、こう書かれる

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