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[20]第2章 演劇篇(12)

享楽化の歴史は繰り返す

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

エロ・ナンバーワン女優

 エロ・グロ・ナンセンスからやや離れたので、余談ながら横倉辰治が一時参加していた稀代のエロチック女優河合澄子一座について触れておこう。文字通り河合澄子のひきいる一座で、地方巡業をよくやっていたが、そこに横倉は『演歌師、女、銀座』という脚本を書いた。

 大正の5、6年、浅草オペラの全盛頃、突如エロティックを売り物にした女優が出現し、満都のファンの人気をさらった。

河合澄子さん(中央)は、民衆娯楽の源泉・レビューに20年前から登場している「万年新進」ダンサー。むっちりした肢体をさらして男性を惹きつけている=1930年12月ごろ撮影浅草・帝京座のレビューで踊る河合澄子(中央)=1930年12月ごろ撮影
 これが河合澄子であり、エロダンスの本家本元などといわれた。もっとも、体をくねらせ舞台で客席に秋波を送る程度であり、現在の基準であったら咎められることもなかったであろうが、当時の基準では許し難い行為であったようで、象潟署長(今の浅草署)の怒りに触れ、河合澄子は浅草を所ばらいになった。江戸時代の封建遺制がまだ生きていたのである。

 河合澄子には不思議な性的才能があったという。

 「彼女は大変な名器の所有者で、異様な技術を持っていた。パトロンを掴んだ時はその名器でクタクタにして金を巻きあげるが、自分は不感性なのだ。だから疲れを知らず毎晩何回でも執拗に性交をして、パトロンを愉悦させる。後年玉木座全盛期に社長をとりこにして贅の限りを尽くし、持ち小屋の帝都座で河合澄子一座として出演していたのは周知の通りであった。この河合澄子はパトロンの場合は前記の如くだが、自分の好きな若い燕との愉悦の場合は全然別で、自分本位になり失神し、お互い愉悦し、持病のスピロヘータを伝染させるのだから怖い」(『わが心のムーラン・ルージュ』横倉辰治)

 横倉はこの河合澄子一座にはいり、巡業のための戯曲『演歌師、女、銀座』を書いた。「もちろん河合澄子には興味を感じ気に入った」と記す。当時は30歳をすぎた女性は「年増」などといわれ、既婚者でない女性は奇異に見られたりしたが、河合澄子は浅草からの「所払い」をくらったあと、再び浅草に舞い戻り30過ぎてなお、みずみずしいエロチックな踊りを披露して浅草興業街に花をそえた。

女装の男子の踊り子

 性的なことに限らず、人は強い刺激に驚き、惹きつけられるが、どんな強い刺激にも慣れていくもので、さらに強い刺激を求める。

 テレビで高視聴率をほこる長寿番組『サザエさん』など、ごく平凡な家庭の日常風景を繰り返し描写し、強い刺激とは無縁で、ほのぼのとした空気を漂わすが、多くの人はそれを「退屈」「マンネリ」とは思わず見続けている。ところが、刺激の強いものに対しては、より強い刺激がないと、離れていく。

 エロ・グロ・ナンセンスの色合いの濃い舞台は、常に強い刺激を求められる。浅草のカジノ・フォーリーでの演目の一部が、「カジノ・フォーリーの魂消事件」として新聞ネタになった。

 読売新聞(昭和6年8月12日)が報じたもので、題して「男、女、混戦・三重奏」。 当時の新聞の芸能欄の記事のトーンをも読み取ってもらうため、全文を載せる。

 「裸の脚が数十本、腰のあたりをピカピカと光らせて、男の心臓をハラハラさせて踊る。――あのレヴューのその踊り子のなかにガゼン、男がひとり、女になって混じっていた。そして、その脚に心臓をドキドキさせて見入っている客があったんだから、こいつは笑わせる。
 カジノ・フォーリー。あすこに椿紅子という踊り子がいた。肌の白い、眼のぱっちりした、とてもキレイなガール。ヴァリテを専門に踊っていたが、楽屋への入りの時はいつも男装しているというフシギなガール。
 ところである日、紅子に惚れていた某が『紅ちゃん、きょうは女らしく女の洋服を着ろよ、銀ブラするんだから』と彼女を連れて銀ブラした挙句、円タクで××ホテルへ飛ばし、お定まりの桃色の夢を見ようということになると、突然、彼女はイヤだと言い出した。
 イヤだと云われれば男の意気地すったもんだの騒ぎの末が、とんだことになっちまった――というのは、椿紅子である筈の彼女が、完全なる男性であったんである。なァんでェ……と、件の某はプレン・ソーダをぶっ掛けられた表情よろしく、ホテルを出たのであったが、それ以後、椿紅子の姿は、カジノから消えてしまった。抜けるように色の白い腰の程よくふくらんだ、美しい女のような男だったがなァ――と、カジノの楽屋で惜しんでいる」

 こういう踊り子の登場で、一時客足の途絶えたカジノ・フォーリーにまた客が入り出す。興行主はそれを狙って敢えて仕組んだのである。

女優の売春とバンタライ社

 「女優」という職業には、今も昔も「幻想」を抱く男性が多いようで、逆に「女優」を売り物に、バブル時代に流行った「コンパニオン・ガール」のようなことをさせていた会社があった。

 黒瀬春吉が経営するバンタライ社で、「女優の派出」を主な業としていた。待合などに「女優」を派出する、つまり「コンパニオン・ガール」の元祖といってもよく、ひところ人気を誇った。添田唖蝉坊によると、黒瀬は実業界の怪物といわれた故久保扶桑の息子で、幼にして不良であった。

 「(黒瀬は)立花家歌子の為に小指を切って送り、然も小指を送り返されて、失恋した。十二階下にはじめて遊んでその私娼に忽ち打ち込み、たった一度逢っただけのその女が、腸チブスで隔離されると聞くや、直ちに馳せ参じて、四三度の熱の中に転々販促している彼女を口説いて接吻と夫婦約束を交わしたという男である。
 十二階下に縄暖簾『悟助』や『グリル茶目』を出して、地回りや文士達のオアシスたらしめたこともある。労働運動をやるかと思えば、スパイ専業、白衛社を営む。まことに近代的豹変学派の徒である」(『浅草底流記』)

 黒瀬はバンタライ社で「プロレタリア女優を糾合して野生の踊りを踊り、且つ朝野の士を翻弄した」という。また「お座敷ダンス」の発案者でもあった。

 バンタライとは万物流転という意味のギリシャ語で、ダダイストの辻潤の命名であった。この会社が「女優派出」によって繁昌すると、亜流の「女優派出」会社が続出した。そこで黒瀬は新たに「享楽座」と名前をかえて新たな出発をした。

 享楽座は設立の「宣言」を公表した。以下のような内容であった。

 「……私達は今まで先生という程の先生について何も教わった事がありません。私達の芸術は、地の底から湧き出る清い泉のように、私達の胸の中からほとばしり出た自然の芸術です。
 ……私達は一回の独唱に数千金を要求したと伝えられる某女史の肉声が、如何に遊蕩階級の賛美をうくべく巧妙なるメロディーを現出し得たかを知りません。ただ野の鳥の如何に楽しく唄い囀るかを知っています。私達は決してソンジョソコラのドエライ女優さん方のように、やれ帝劇には出演するが公演には出演しないの、公演には出演しても待合には出入りしないの、待合には出入りしても淫売はしないの、淫売はしてもバンタライ社には出入りしなのというようなきいた風な事は申しません。私達は生活のためとあれば日本一の大劇場でも、場末の寄席でも、大道でも、(勿論四畳半のお座敷でも)平等一様に出演して私達の『芸術』を極めて安価お手軽に販売します。コケオドシや食わせ物ではない、ほんとうの生きた血と涙との『芸術』が欲しい人は何時でも御遠慮なく御下命を願います」 (『浅草底流記』)

 享楽座は芸妓組合への加入を申請したが、拒絶された。そこで単独で営業をはじめたとろ、これが凄まじい繁盛ぶりであった。芸妓組合では享楽座の出先へ妓を送らないとの決議をし、組合対一享楽座との争闘が起こった。この争闘には象潟警察署長が仲裁にのりだしたほどである。

 享楽座は関東大震災後、解散したが、その後、享楽座所属の女優の若草民子は京都にいき、橘瑠璃子と名のって河合澄子並みのエロダンスを披露した。その後、彼女は東京へもどり葭町でお座敷ダンスを披露して大いに流行った。ところが、裸ダンスは怪しからぬとか、その筋から休業を命じられ、憤慨した彼女は廃業届を提出した。そのほか花園歌子は「文学芸者」としてお座敷ダンスを売り物に烏森からでており、西脇真珠は吉野光枝となって、一時築地小劇場に出ていたという。

 「かくして黒瀬の先見的いたづらのヴァライティーは、小さな破片となって飛び散ってしまったが、世は、今となってヴァライティー大流行の現象を呈している」と添田は記す。

世界の劇団に比類のない血の悲劇

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