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[24]第5章「夢見られた学園(6)」

ゆとりが生んだ廃墟

菊地史彦

 1977年に告示された学習指導要領の改訂は、大きな方向転換を示した。

 1958年版、1968年版の基本路線であった能力主義的教育観に代わり、「ゆとり」がキーワードとして登場したのである。改訂の理由には、低成長期の到来による「価値観の多様化」や、「詰め込み教育」による「おちこぼれ」などが挙げられた。

 教育課程の基準には、「人間性豊かな児童生徒を育てること」、「ゆとりのあるしかも充実した学校生活が送れるようにすること」、「児童生徒の個性や能力に応じた教育が行われるようにすること」という三つの柱が示された。

 併せて主要教科を中心に授業時間が削減され、高度で難解な内容も割愛された。さらに週に1時間「ゆとり」の時間が新設され、学校の裁量に任された。

 私は、ゆとり政策の背景には、進学率の上昇による「学歴インフレ」の出現、そこから生まれる進学モチベーションの低下、さらにいえば、人々の教育と進学に対する幻滅があったのではないかと思う。

 往時の管理教育が、生徒たちの「学校嫌い」に対する教育界の恐怖から生まれたのと同様、ゆとり政策も、能力主義的な教育路線に対する人々の深い失望をやり過ごすためのものではなかったのか。

 産業界の要求に応える後期中等教育政策は、オイルショックに腰を砕かれた企業の側の都合と、普通高校への進学を望む圧倒的な声によって頓挫した。

 後に残ったのは、偏差値による序列化と進学競争における格差だった。下位に位置する生徒たちは、学ぶ理由を失い、たちまち脱落した。「ゆとり」は、彼らの憤懣を和らげる安易な飴だった。

臨時教育審議会の第2次答申後、中曽根康弘首相と会談する岡本道雄・会長(左)=首相官邸19864臨時教育審議会の第2次答申後、中曽根康弘首相と会談する岡本道雄・会長(左)=1986年4月、首相官邸
 ゆとり政策は、すでに見てきたように、ほぼ無力だった。逆に70年代後半から始まった「学校問題」は、80年代にさらに激化し、多発した。

 そうした中、中曽根康弘首相は、1984年に内閣直属の臨時教育審議会(臨教審)を発足させ、85年から87年にかけて3回の答申を行わせた。

 6年生の中等教育学校(中・高一貫校)、単位制高等学校、教員の初任者研修制度、大学教員の任期制、学習塾の教育力認知などを盛り込み、最終答申では、個性重視に始まる八つの基本原則を示した。

 新自由主義的色彩の強い臨教審の影響の下、1989年に学習指導要領の改訂が行われ、従来のゆとり路線を推し進めた上で、知識偏重の学力観を改め、“自ら学ぶ意欲と思考力・判断力・表現力を重視する教育”を打ち出した。

 後に「新しい学力観」と命名されたこの考え方は、共通の知識・技術を身につけさせることを重視する従来の教育から、生徒や児童が「自ら進んで考え、判断し、自信をもって表現したり、行動したりできる豊かで創造的な能力の育成」(高岡浩二「今月の言葉」、『初等教育資料』、1991年3月号所収、苅谷剛彦『教育改革の幻想』、2002、より)への転換を強調した。

 また、自ら学ぶ意欲の育成を目指して、教師は指導者ではなく、児童・生徒の学習の「支援者」であるべきだという認識が喧伝され、実際に主体的な学習を促す体験学習の実践が推奨された。

 ここにひとつ、疑問が浮かび上がる。ゆとり路線と、新自由主義的な「教育改革」や「新しい学力観」は、どのように「結合」したのだろうか。

 臨教審の「教育改革」の核にあるのは、「個性尊重」という旗印である。一見否定しにくいこの考え方は、「改革」を正当化する至上命題として機能する一方、教育の市場化や規制緩和を強力に後押しする駆動理念となった。

 その背景にあったのは、自国経済の競争力を強化するために、アメリカのレーガン政権やイギリスのサッチャー政権が推し進めた「教育の再構造化」である。

 両国の教育事情はやや異なるが――イギリスでは、階層社会と地域分権が教育の停滞を招き、アメリカでは、60年代以後の平等主義と学校暴力が教育を荒廃させていた――中央政府の統制力を強めつつ、市場原理(学校選択の自由など消費者主権の拡大)を導入する政策には共通点が多い。

 日本の「教育改革」も、この新自由主義の流れの中にあるが、米英と異なるのは、「ゆとり」の創出という、逆向きとも見える政策が採用されたことだ。

 教育社会学者の藤田英典は、教育を、行財政改革や金融システム改革と同列視した結果、「学校教育がカバーする範囲を縮小すれば、教育はよくなる」という、「奇妙なロジック」(『教育改革』、1997)が生まれたのだと指摘している。

 この「小さな政府」志向の、安易な改革理論によって、「ゆとり」も「新しい学力観」も正当化され、同じ方向に結束されたのである。

 しかし実際には、「改革」のマイナス効果は隠しようがなかった。

 教育社会学者の苅谷剛彦は、「ゆとり」が成績下位者のさらなる学習離れを促し、できる生徒とできない者の格差を拡大した事実を報告している。

 1979年と97年の調査を比べると、成績上位者の学習時間も減っているが、下位者の勉強時間はもっと大幅に減っている。苅谷は、「より長く勉強していたものが勉強しなくなったのではなく、それ以上に、もともとあまり勉強していなかった生徒たちに――結果的に――『ゆとり』が与えられたのだ」(『教育改革の幻想』、2002)と分析する。

 また苅谷は、「新しい学力観」によって、教師の役割が「支援者」に転換すると、的確な指導よりも児童・生徒の関心や活動ばかりを重視する傾向に陥る危険を指摘した。

 すなわち、「このような学習観・学力観の転換は、生徒の間の学習経験を多様にせざるをえない。その結果、知識や技術の獲得の点での格差拡大が懸念される」(前掲書、斜体引用者)のだ。その懸念が事実になったことを、我々は知っている。

 政策立案者が、学力の低下を狙っていたとは考えにくいが、「改革」が教育や学歴の格差を生みだし、「教育の機会均等」という戦後的理念を葬ったのは確かである。これが、意図されたものではなかったという保証は、どこにもない。

 そして、この「奇妙なロジック」の教育観は、1998年の学習指導要領改訂にも受け継がれた。

 新しい指導要領は――学力の低下がすでに顕在化していたにもかかわらず――、「ゆとり」路線をさらに進め、学習内容の削減・整理、2002年からの完全学校5日制導入を決めた。

 また、自ら学び考える力など全人的な「生きる力」を提唱し、それを養う教科横断的な「総合的な学習」の時間を新設することとした。

 しかしすでに見たように、「ゆとり教育」は、「学校問題」に何の解決策ももたらさず、総体的な学力低下の中で、教育の格差を広げる結果を生みだしていた。学習指導要領改訂が告示された1998年は、「学級崩壊」が全国で勃発した年でもあった。

 1990年代末から2000年代の初頭にかけて、「学力低下論争」が巻き起こった。多くの論者は、ゆとり路線を元凶とみなし、政策の見直しを求めた。論争の中心にいた文部科学省の政策課長(当時)・寺脇研は、誌上で反対論者やアカデミシャン(前述の苅谷もその一人)と対話し、「ゆとり」の正当性を訴えた。

 しかし、文科省の「敗北」は、ほぼ決していた。

 2002年1月、新学習指導要領の実施の直前に、遠山敦子文部科学大臣は、「確かな学力の向上のために 2002アピール『学びのすすめ』」を出し、従来路線の転換を示した。

 そこに掲げられた五つの方策には、ゆとり路線の基本方針と並んで、「発展的な学習」や「学びの機会の充実」、さらに「特色ある学校づくり」など、「確かな学力」づくりの施策も盛り込まれていた。

 この時点で、四半世紀にわたって継続されてきたゆとり教育の旗が下ろされた。

 「ゆとり」と学力の関係も、学力自体の定義も、教えるべき学習内容も、議論はつくされることなく、放置された。残されたのは、方向感を失った「学園」の抜け殻だった。

 マンガ家の岡崎京子は、1984年にデビューし、80年代後半、『くちびるから散弾銃』(1989~90)や『pink』(1989)で、消費都市のただなかを“身体ひとつで”生き抜く若い女性たちを描いた。

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