赤坂憲雄 著
2015年02月26日
東北を語ることは、関西人・司馬遼太郎自身の表現で言えば、「懸想文」(恋文)だったという。アブナイ。すでに司馬を卒業したはずの読者でさえ、焼け木杭に火を付けるような、殺し文句に近い可燃物の匂いがする。あの圧倒的なリーダビリティ、歴史という教養を身につけた気にさせる魔力。実にアブナイ。
だが、本書の著者は幸いにも、史実と虚構を混同したがる経営者ではなく、「坂の上」から立ち去りたがらない評論家でもない。
およそ自分が抱いていた「民俗学者」に似つかわしくない清新な言説に共感し、著述にも触れた。
怜悧で精妙、かつ誠実な取材で構築された柳田國男分析にも、感銘も受けた。
創見に満ちた「東西」論、岡本太郎論。山形と宮城を拠点にした継続的な「東北学」。
現実にも目を逸らさない。東日本大震災後の被災地を歩き、発言し、顕在化した東北差別に対して厳しい批判を表明している。いわば今を生きる公正な「東北学者」の視点で、かつての国民作家の東北への視界を再現したのが、本書にほかならない。
各地を訪れた司馬の『街道をゆく』シリーズだが、これを分類するとしても「九州紀行」「四国紀行」のような集成は意味をなさず、ただ「東北紀行」だけが集成可能とする赤坂の指摘に、まず身を乗り出す。
1970年代から歿する1996年まで続いた週刊朝日の連載で、司馬の東北行きは6回に及んだ。
年代順に挙げれば、『陸奥のみち』(青森県東部~岩手県北部)、『羽州街道』(山形県内陸部)、『仙台・石巻』(宮城県海岸部)、『秋田県散歩』(秋田県沿岸部~北部)、『白河・会津のみち』(福島県中通り~会津)、『北のまほろば』(青森県津軽~下北)である。
赤坂によれば、大阪人であった司馬は、つねに西行・芭蕉ら関西圏の文化人が憧憬した《みちのく》を、熱く意識した。王朝びとが想像し、詩人たちが創造し継承した「歌枕」の流儀から、基本的に外れはしなかった。
同時に、天性の「歴史読み」で「歴史語り」であった司馬は、古代政権が選択し、歴代の権力が推進した「米作文化」「稲作中心史観」の功罪を、紀行の中で繰り返し糾弾した。
食糧の生産・供給の手段選択が、人間の尊卑・善悪の判断基準にまで及んだ様々な逸話を紹介し、寒冷ゆえに本来(近代まで)イネの適地でなかった東北が背負った辛苦と差別に憤り、中央が生んだ《文化と史観》に呪縛された東北への同情を、絶やすことはなかった。
それゆえに、三内丸山遺跡の大発見と重なった晩年の青森県の旅では、稲作文化以前の「縄文東北の豊かさ」の証に喜び、ついには《まほろば》というかつての中央への美称を、敢えて表題に据えた。
歌枕的な東北への憧憬と、差別された東北への同情。
赤坂は、司馬のこの2つの主題を繰り返し明示することで、6篇の「東北紀行」に流れる豊かな変奏を、鮮やかに穏やかに再演してゆく。ときには、民俗学的な専門コメントも挿入してくれる。
しかし、穏やかな読みは、『白河・会津のみち』で転調する。
赤坂は、宋学についての司馬の解釈を見逃さない。唐突な「ドグマに支配されて、人間は幸福だろうか」という問いかけ。赤坂は直ちに、「幸福になるための正義体系(「イデオロギー」と司馬原著にルビあり)」と批判された標的を、正射する。
すなわち、かつて正義のドグマを振りかざし、「朝敵」の汚名で会津藩を徹底的に差別した国家のイデオロギー。会津は、最初の『陸奥のみち』からずっと低音で鳴っていたのだ。
もちろん赤坂は、司馬の東北への憧憬と同情の芯が会津であることを確認したいだけで本書を書いたのではない。現在の公職(会津若松市にある福島県立博物館長)への我田引水でもない。
「会津への、東北へのいわば贖罪意識は、あえていっておくが、司馬その人の精神の深みに根ざしていた」。贖罪の奥には、闇がわだかまる。
だから赤坂は、こうも言わねばならなかった。「東北はこの『日本』という国家にとっては、まさしく千年の植民地である。とりわけ西の精神史にとっては、それは憧憬と蔑視とにひき裂かれた両義的な場所」なのだと。そこには他国への憧憬と同情が、蔑視と差別に転じた現代史の闇も、暗示されるだろう。
司馬の「歴史語り」に身を任せる快楽を認めつつ、司馬が抱え込んだ闇を見据える矜恃を籠めて赤坂の旅はひとまず終わった。だが、司馬の「イデオロギー」批判という課題は、今、読み終わった我々に問われている。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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