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『アメリカン・スナイパー』の痛ましさ(上)

「英雄」のまま壊れていく男の悲劇

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 クリント・イーストウッドが84歳で撮った『アメリカン・スナイパー』で描かれるのは、イラク戦争で160人以上を射殺した凄腕のスナイパー/狙撃手、クリス・カイルの半生だが、アメリカではイーストウッド作品史上最高のヒット作となり、日本でも多くの観客を集めている。

 クリス・カイルの自伝にもとづく本作がヒットした最大の理由は、イラク戦争の後遺症ともいうべき、現在世界を震撼させている中東情勢、すなわち「イスラム国」の跳梁(ちょうりょう)に対する人々の関心の高まりにあると思われる。

『アメリカン・スナイパー』『アメリカン・スナイパー』より(狙撃手クリス・カイル/ブラッドリー・クーパー)
 そして、アメリカでは本作をめぐる評価が賛否両論まっぷたつに分かれたことも、興行面ではプラスに働いたにちがいない。

 ひょっとするとイーストウッドは、そうした賛否両論の宣伝効果を承知していたのかもしれないが、本作がイラク戦争や「英雄」クリス・カイルの人生を讃美しているか否かについては、追って述べよう(以下ネタバレあり)。

――テキサスに生まれたクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)は、幼い頃から愛国主義者の厳格な父親にこう教え込まれた。

 「人間には3種類ある。“羊、狼、番犬"だ。おまえは番犬であれ」、と。

 こうした愛国主義イデオロギーを父親に刷り込まれたことが、クリスの悲劇の始まりとなるが、この父親は、息子を日課のように鹿狩りに連れて行く。

 そしてクリス少年は鹿撃ちという“英才教育"で、非凡な射撃の才能をみせる。

 時が経ち、ロデオの名手=“カウボーイ"となった青年クリスは、アフリカのアメリカ大使館爆破事件(1998)を知ったとき、自分の行くべき道を確信する。すなわち、<祖国の番犬になること>だ。

 かくて軍の訓練生となったクリスは、狭き門を突破して海軍特殊部隊ネイビー・シールズに入隊、9・11テロを機に米英が起こした大義なき愚かなイラク戦争に、4度従軍する。戦場では前述のごとく、スナイパーとして図抜けた狙撃能力を発揮し、“レジェンド/伝説"の異名をとる。

 いっぽうクリスは出征前、軍事訓練と並行して、良き夫として妻タヤ(シエナ・ミラー)との結婚生活を送っていたが、戦地に向かうことを彼に決意させたのは、“銃後"で暮らす、家族を含む同胞を“狼"から守りたいという単純素朴な善意――しかし客観的にみれば<国家教=ナショナリズム>に洗脳された思念――であった。

 もちろん、クリスは戦場では名狙撃手として多くの「敵」を殺し、自らの部隊を守ったが、彼は「敵」を射殺する動機を「神、国家、家族のため」であると言い、さらに「敵」を「野蛮人/サベージ」と呼んではばからない。

 イラク戦争が不法な戦争であり、米軍の空爆により多くのイラク民間人の犠牲を出しつつあったことなど、ナイーヴなクリスは知るよしもない(こうした、クリスの主観的な思いと客観的な状況の大きなギャップが、この映画の悲劇性をいっそう強めている)。

 だが、何度も前線で極限状況に置かれたクリスは、達成感や興奮を味わいながらも、少しずつ――目立たない形で――神経をむしばまれていく。この、目立たない形で、というところがミソだ。

 つまり、戦場のおぞましさに対して強い抵抗力・免疫力をもっているはずの、鍛え抜かれたタフガイ=「英雄」の心が、にもかかわらず、狙撃や戦闘にともなう極度の緊張によって徐々に壊れていく、その壊れ方が痛ましいのだ。

 いわばクリスは、「英雄」のまま、じわじわと心に負荷をかけられていくのである。つまるところ、強靭(きょうじん)な精神と肉体をもった――戦場の過酷さへの耐性をそなえた――「英雄」だったからこそ、彼の心は一気に破壊されずに、少しずつ病んでいったのだと言えるだろう。

 こうした、戦争がもたらす精神的障害は、

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