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元少年A『絶歌』が刺激した日本の“空気”(中)

“サブカル”的に描かれた「僕の物語」

松谷創一郎 ライター、リサーチャー

自己の物語化

 勉強も、運動もできない。他人とまともにコミュニケーションを取ることもできない。教室に入ってきても彼のほうを見る者はいない。廊下でぶつかっても誰も彼を振り返りはしない。彼の名を呼ぶ人はひとりもいない。いてもいなくても誰も気付かない。それが僕だ。
 どの学校のどのクラスにも必ず何人かはいる、スクールカーストの最下層に属する“カオナシ”のひとりだった僕は、この日を境に少年犯罪の“象徴(カオ)”となった。 (元少年A『絶歌』p.7/2015年・太田出版)

 「名前を失くした日」と題された『絶歌』冒頭の節には、この印象的な一文がある。上手いこと書くな――と一瞬思う。こうした存在感の薄い少年は、全国のどこの中学校にもいるだろう。そうした存在を表現するのには、見事な一文なのかもしれない。

 しかし、同時に奇妙な感覚にも襲われる。そこに「スクールカースト」「カオナシ」というふたつの単語が登場するからだ。

「絶歌」さまざまな文学、マンガ、映画などが引用されている『絶歌』
 「スクールカースト」は、2000年代中期頃から見られるようになった、学校内の階層を意味するネットスラングである。

 一方「カオナシ」は、2001年に公開された宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』に登場する、言葉を上手く発せない化け物だ。

 ともにAが事件を起こした1997年には、世に存在しなかった表現である。

 つまりこの一文が意味するのは、(当然のことではあるが)事件を起こすまでを描いた前半部は、現在のAによる解釈がふんだんに盛り込まれた回想であるということだ。

 同じ人物とは言え、当時「透明な存在」と名乗った少年Aを、18年後に元少年Aが遠目に見て「カオナシ」と呼んでいるのである。

 その解釈とは、「物語化」と言い換えることもできる。14歳までの自分がどのように育ち、その結果なぜあのような陰惨な事件を起こしてしまったのか――それを物語化しているのである。

 『絶歌』が批判された理由のひとつには、この自己物語化における描写にあった。

 自らが起こした事件の具体的な描写はもとより、過剰な修辞があふれる下手くそな文学青年もどきの文体は、きわめて自己陶酔的かつ自己顕示的に感じられる。まるで他人ごとのように過去の自分を語っているからだ。

“サブカル”断片による「僕の歴史」

 こうしたAの自己物語化では、さまざまな文学やマンガ、映画、歌詞などが引かれている。

 ざっと書き出すと、ドストエフスキー『罪と罰』、太宰治『人間失格』、村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』、村上春樹『海辺のカフカ』『トニー滝谷』『1Q84』、大藪春彦『野獣死すべし』、三島由紀夫『金閣寺』、古谷実『ヒミズ』『ヒメアノ~ル』、映画『スタンド・バイ・ミー』、松任谷由実「砂の惑星」、フロイトの精神分析などである。

 『絶歌』では、これらの作品群によってAの心象が解説される。つまり、小説やマンガなどのさまざまな物語のパッチワークによって、自己物語は構成される。

 思春期を引きずった青年のブログで見るかのようなそのチープさは、極めて(4文字の)“サブカル” 的と呼べるものだろう。

 それは、単に文学やマンガなどを引用しているからではない。

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