マイケル・ハリス 著 松浦俊輔 訳
2015年09月11日
急所を突いてくるイヤなタイトルだ。「バカ」とは自分のことだというのが一発でわかる(文中で紹介されている作家ダグラス・クープランドの造語によれば、「バカ」とは、「スマート」と「ステューピッド」の造語「スミューピッド=かしこバカ」のこと。だが、「かしこ」くなったのかどうかは疑問だ……)。すでに『ネット・バカ――インターネットがわたしたちの脳にしていること』(青土社)という本はあるが、「オンライン・バカ」には、全生活を否定するかのごとくニュアンスがある。
『オンライン・バカ――常時接続の世界がわたしたちにしていること』(マイケル・ハリス 著 松浦俊輔 訳 青土社)
最近は、食事中に目の前の料理を撮影してフェイスブックにあげたりLINEのやりとりをして会話が中断したり、こちらの話に気がそぞろでも何とも思わない。その間、こちらもメールをチェックしたり、ウエブを見たりしている。
こういう状態を「合体性注意散漫」というそうだが、確かに、物事に熱中して時間が経つのを忘れたりすることはめったになくなった。
だいたい、朝起きるなり真っ先にするのはスマホでのメールチェック。通勤途中でもたいがいスマホを見っぱなし。会社で机に向かってPCを開くなり多くのウインドウを開いて仕事をしながら、その間、メールが大量に届き、片っ端から返事をしたり送ったり。
打ち合わせだろうが会議だろうが、社用と個人用とスマホ2台はテーブルに置いたままで、ちらちら。寝るまでこの調子だ。これが休日だろうが、実家に帰省しようが、旅行先だろうが大差ない。
こんな「常時接続=オンライン」状態がマトモとは思えない。思えないのだが、ではどうすれば? という問いさえ浮かばないままだ。
こうした日常をむしろ当然視しているとすれば、よほどおめでたいヤツだと非難したい気は少なからずあるが、一方で、そんな違和感は早晩失われていくだろうという自覚はある。
僕はおそらくまだ軽度な「バカ」だろうが、カナダのジャーナリストである著者(30代)は、ある日、メールの受信箱を開く回数を数えたら52回、2台のモニターでウインドウを14も開いて仕事をしていたりする。
そんな彼が、インターネット以前の世界/ビフォーと、インターネット以後の世界/アフターの両方を知る「史上最後の人類」として、「以前」の世界に「うっかり置き忘れたかもしれない大事なもの」を探っていく。ある意味で無謀な旅。
ネットによって、彼が失ったと感じるのは「空白」だ(本書の原題は“The End of Absence”)。ぼんやりしている時間、じっくり答えを探りながら思考する時間、孤独でいる時間……。
これだけ聞くと、ネット社会やSNSの負の側面に焦点を当てた、よくある本と思われるかもしれないが(特に「アフター」の世界しか知らないデジタルネイティブについての本は山ほどある)、本作はそうしたものと一線を画す。
「アフター」の世界で失われたものをいたずらに告発することも、喪失感に浸るのでもなく、ビフォー/アフター両方の世界を行きつ戻りつしながら、ビフォーには戻れるはずもないという「もがき」(諦観?)が共感を呼ぶ。
いじめにあっている女の子が自分のことをネットで告白した途端に火に油を注いで自殺に追い込まれた事件、パソコンのモニターやスマホで同時に多くの作業をしても(=マルチタスク)、実は生産性は上がっていないということ、ウィキペディアのようなサイトが人の記憶を「外部委託」し、素人のコメントがネット上で幅を利かせて「権威」になり(=批評の危機と、「意見の過多」)、性的パートナーですらサイトで探すという現象……(ちなみに、僕らがネット上の記事を読むときは「粗略に」読んでいて、情報を取り込む量はウエブ1ページにある単語の20%以下、なんていうデータには、やれやれと嘆息するしかない)。
このような事例を心理学や脳科学、メディア論などの知見を動員して紹介していくのだが、アフターとビフォーのずれを痛感している僕には、彼が「接続断ち」に挑戦するところが、特に響いた。
「メールチェックは一日三回、そして断固、(毎日)『戦争と平和』を一〇〇頁読む」
「非バカ」にはなんてことのない課題かもしれないが、「気散じ中毒」になった人間にとってこれがいかに難しいか……(彼はなんとか断行する)。
そして、彼は作家やメディアの専門家などと対話をしつつ、なおも「空白」を求めてみる。
スマホを電話コードでぐるぐる巻きにしてガムテープで台所のカウンターに留め、「世間を離れる」のだ。
そのプロセスは、ドラッグ依存の患者が治療するごとくだ。メールを読みたいという衝動にかられ、わずか8日後にはメールの夢を見たりする(彼「責め苦」とさえ言う)。そしてとうとう1カ月後、メールの受信箱を開いてしまう。264通のメールのうち、100通はすぐに「ゴミ箱」行きにし、100通にすぐ返事をして、60通のメールの返事に朝まで格闘しつつも堪能して、眠りにつくのだ。
彼はこう結論づける。ネット以前の心に戻ることはできなくなった、デジタルを拒否しても何もならない。「絶対の拒否」は結局何かに依存することにすぎない。
だから「バカ」が治る処方箋などないのだが、彼は「疑似処方箋」としてこう提案する。
週末を何回か画面を見ないで過ごすことを自分に認め、その時に「不安」を感じ、何が不安なのかを考え、そうした不安は、「沈黙」「空白」が自分に必要だということのしるしだということを思い出そう、と。
一見、なんとも煮え切らない凡庸な結語にも思える。だが、何を失ったかさえ忘れてしまいがちな現在、逆説的だが、この提案がどれだけラジカルであることだろう。「オンライン」であることと、ないこと――著者が言うとおり、いま、これを突き詰める最後のチャンスなのだとすれば、この本を読了してからが、本書の「起点」なのかもしれない。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください